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「復興」は元に戻ることではない 血の通った温かい時間を積み重ねて

支援とは、マラソンランナーの伴走をしているようなもの。ただ寄り添うのではなく、一緒に動いていく。

避難所から、仮設住宅に移り、災害公営住宅や自力再建へーー。

岩手県の三陸沿岸の被災者が移りゆく中、この8年間、伴走を続けてきた音楽療法士、智田邦徳さん(51)は「復興」とは何かをよく考える。

「元に戻ろうとすることが復興というイメージがありますが、この8年の間にもみなさんは新しい体験を積み上げています。何かをなくした人に新しいことを積み上げるお手伝いをしているという気持ちなんです」

会いに行きたいから会いに行く

三陸沿岸への音楽療法に通い始めた頃、宮古市のボランティア受け入れ担当者に名刺の束の山を見せられ、こう言われたのを強烈に覚えている。

「これは今まで会った人たちの名刺ですが、この中で誰一人として残っていません。あなた方、もしボランティアをするならば、4年は通ってください」

4年という期間はどういう意味なのだろうか?

智田さんは、入れ替わり立ち替わり被災地に「支援」のために入るボランティアと接して、被災者がどんな気持ちでいるかを想像した。

「生活の見通しが立たない状況で、これから先もこの人は来るんだなと思えないと、自分の本心なんてとても明かせないですよね。『これを助けてほしい』『これはいらない』ということは一見さんには言えません。関係性を築くために最低、それぐらいの時間はかかるんだよと言われた気がしました」

それ以来、ノートを持っていって、参加者に名前を書き込んでもらうようにした。何度も通って、常連さんを名前で呼ぶようになると、そのうち、人が少ない時に、津波に遭った時の被災状況や亡くなった家族のことをポツポツと話してくれるようになった。

「最初は私の方でも被災者の方を一括りに見ているところがあった。でも名前や顔を覚えて、被災の時の話やどんな仕事をしてどんな家族がいてということがわかってくると、その人と私の間にもつながりができてくる。途中から、会いに行きたいから会いに行っているという感覚に、私自身が変わっていきました」

その頃から、避難所や仮設住宅で関係が終わるのではなく、連絡先を交換して、その後もずっとお付き合いを続けることが増えていった。

伴走者として一緒に動く

大槌町の災害公営住宅に住む女性(56)は、大槌町浪板の仮設住宅にいた頃に、智田さんたちの音楽療法に来ていた。

仮設住宅では飼うことが禁じられていた愛犬を手放したくなかった女性は、元々の不安定な精神状態もあり、他の住民と馴染めないでいた。犬と一緒に駐車場に停めた車に寝泊まりし、昼間は趣味の刺繍や刺し子をしながらひとりぼっちで過ごしていた。

そんな妹を心配した姉が、智田さんが音楽療法に来るようになった頃、「あの歌の先生はあんたに合うかもよ」と誘ってくれた。最初は恐る恐る、集会所の一番後ろで見ていたら、楽しくていつの間にか自分も一緒に歌っていた。

「歌詞を書いた紙の文字が見えないので、少しずつ前に行って、人前では外せなかったマスクも外して歌えるようになりました。智田先生は、歌だけでなく、他の仮設住宅の様子や今、世の中でどんなことが話題になっているかを話してくれる。世界が広がるような気がしました」

コミュニケーションが苦手で、仮設の狭い人間関係から「逃げたくて逃げたくて仕方なかった」と言う女性。サロンに通ううちに、少しずつ親しみを感じていた智田さんから寄付された手芸の材料が余った時、「他の欲しい人に配ってあげてもいいですか?」と自ら申し出た。初めてのことだ。

「それまで私は、『みんな頑張っているのに』とか『考える前に動いてみればいいのに』と言われることが多くて、『これでも一生懸命やってるのに!』と爆発しそうな気持ちをずっと抱えていました。智田先生は窒息しそうになっていた私に、外の空気を入れてくれたのだと思います」

何かと自分のことを気にかけてくれた姉は4年ほど前に病気で亡くなり、昨年9月には先に災害公営住宅に入居していた父母と一緒に暮らすようになった。

智田さんらは、その後も女性と連絡を取っては、刺し子や手芸の材料を届け、出来上がったハンカチなどを買い取って、活動に生かしている。

「今でも気持ちが落ち込み、がん闘病中の親にも優しくできない時があります。公営住宅の人たちとも話ができず、ほとんど閉じこもっている状態です。それでも時々、智田さんと会って短い時間でも話をして、刺し子を喜んでもらえると、自分でもできることがあるのかなと思ったりもします」

女性は少しずつ、外から来る大学生ボランティアの手伝いをするなどして、人間関係を広げようとしている。

智田さんは話す。

「マラソンランナーの伴走をしているような感じです。ただ寄り添うのではなく、一緒に動いていく感じですね。精神科医の中井久夫先生が、支援とはカタツムリの行く方法を見据えることと言っていますが、こちらが手を引っ張るのではなく、その人のペースで一緒にゆっくり歩いている感じです」

復興とは新しい体験を積み上げていくこと

今回の取材で、初日は宮古市の災害公営住宅の集会所や公民館を回った。

すっかり振り付けも覚えている参加者は、避難所からのお付き合いの人もいる。私が取材に入った時には、認知症なのだろうか、途中で何度も外に出ようとする女性を、参加者が代わる代わる世話をする姿を見かけた。

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智田さんはこの8年間で「復興」のイメージが大きく変わったのを感じる。

「復興というと、元に戻ることとか、失われたものを取り戻すことだというイメージが強いですが、私は新しい体験を積み上げていくことだと思うようになりました。仮設住宅にいる時間は、人生の中で特別な時代だったかもしれません。でも、仮設にいた時も、血の通って温かい時間があったのではないでしょうか」

震災はそれまでの生活を奪ったかもしれない。しかし、避難所や仮設住宅にいた時間は「失われた時間ではない」と、智田さんは感じている。

「これは私のエゴなんですけれども、音楽も終わってしまったら何も残らないのですが、素晴らしい時間を過ごしたという思い出は本物です。私は何かをなくした人が、新しい時を積み重ねることのお手伝いをしたいと思っているんです」

以前は、「いつまで続けるか」と区切りについて考えていた。でも知り合った人たちが、公営住宅に入り始めた2、3年前から考えるのをやめた。

「公営住宅や新しい家に入ったら入ったで、仮設を懐かしむ人がいるということは、そんな場がまだ必要だということ。これからも会いたい人がいる限り、通い続けようと思います」

(終わり)

【1】「安心して揺らいでいられる場所を」 三陸に通い続ける音楽療法士の願うこと

【2】「被災者から奪わない」 三陸沿岸で音楽療法を始める時に誓ったこと


BuzzFeed Japanでは、あの日から8年を迎える東日本大震災に関する記事を掲載しています。あの日と今を生きる人々を、さまざまな角度から伝えます。関連記事には「3.11」のマークが付いています。

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