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障害者が国政に打って出る理由 「障害者が幸せな社会はみんなが生きやすい社会」

今回の参院選には、複数の障害者が立候補しています。なぜ国政に打って出るのでしょうか。選挙最終日に東京で演説した2人を軸に、取材しました。

参議院選挙に、複数の障害者が立候補している。

難病・ALS(筋萎縮性側索硬化症)患者の舩後(ふなご)靖彦さん(61)と、幼い頃の事故で重度障害者となった木村英子(えいこ)さん(54)、元バンクーバー・パラリンピックアルペンスキー日本代表の横沢高徳(たかのり)さん(47)、過去に「筆談ホステス」として知られた元東京都北区議の聴覚障害者、斉藤里恵(りえ)さん(35)らだ。

彼らは、なぜ国政に挑戦したのだろうか? もし舩後さんが当選すれば、人工呼吸器を常時つけながら政治活動をする国会議員は史上初となりそうだ。

同じ党から立候補した船後さんと木村さんは7月20日夕方、東京・新宿の小田急百貨店前で「最後の訴え」をした。車いす姿の応援者が20人以上駆けつけた。2人は、なぜ政治の世界を志したのか。

人工呼吸器と胃ろうをつけて生活の全てに介助を必要とする舩後さん

舩後さんは41歳の時にALSを発症し、気管切開による人工呼吸器と胃ろうをつけて、リクライニング型の車いすを使い、生活の全てに介助を必要としている。

口で話せないため、意思疎通を図るのは歯で噛むセンサーで操るパソコンと、文字盤によるコミュニケーションだ。この日もボランティアで選挙を手伝う看護師の佐塚みさ子さんと共に登壇し、原稿を代読してもらった。

障害者が我慢させられてきた法律を変える

舩後さんはまず、立候補の理由をこう述べた。

「僕は今回の出馬に文字通り命をかけています。僕がなぜ立候補しようと思ったのか。それは僕と同じ苦しみを障害者の仲間にさせたくないからです」

「国会のみなさんは現場に通用しない穴ぼこだらけの法律があることを知りません。そのひとつが建築基準法です。建築基準法には国民の生命、健康、財産のためとうたわれています」

その法律には様々な問題があるとして、こう語った。

「現場感覚のある本当の意味での法律の必要性を理解してもらいたい。障害者が今まで我慢させられてきた、あてがわれてきた法律からはおさらばです」

「もっと障害者が自由になるんだ。国会議員のみなさんも親友のみなさんもいずれ歳をとり、障害者となります。僕たちが関わり、作る制度が本物になるようにみなさん、お力をお貸しください」

そして舩後さんが訴えたのは、以下のような経験だ。

「車いすのみなさんはユニバーサルデザインだと言って、デザイン性を重視した点字ブロックにタイヤを取られ、横転しそうになったことはありませんか? 僕はあります」

「車いすはエレベーターにと言われ、大型の車いすが入れなかったことはありませんか? 僕はあります」

「障害者用のトイレに入って、戸が閉められなかったことはありませんか? 僕はあります」

「仲間とレストランに入って一緒にテーブルにつけたことはありますか? 僕はありません」

「ちょっと考えただけでも穴ぼこだらけです。こんな簡単なことがわからないのです。誰がこんな片手落ちのことにOKを出すのでしょうか?国の基準とやらではないでしょうか? この建築基準法が時には悲劇を生み出していることを知ってください」

自立生活を送る上での壁

さらに、障害者が暮らす施設では入浴時間を減らされたり、外出での門限が午後3時に定められていたりするなどの様々な差別があったことを明かした。

そして、施設からは病気が進行し意思疎通できなくなったら退去するようにとも言われ、一人暮らしをすることを決めた舩後さん。ヘルパー派遣を受けるために障害者福祉サービスを申請したところ、今度は行政の壁に阻まれる。

「市役所からは『すぐには(公的な介護支給は)出ませんよ。3ヶ月ぐらいかかります』と言われました。みなさん、おかしいと思いませんか? 一般的に人工呼吸器をつけた人が、3ヶ月間、自費でヘルパーをお願いすることができると思うでしょうか?」

「そもそも自立支援とは障害者が自立した生活を送るための制度です。施設を出て、一人暮らしを始めた時点で適応されなければ生活はできません。この制度をめぐって、障害福祉サービスの利用時間を確保するために裁判を起こしているケースも多々あります」

「でも裁判を起こさないと獲得できないということはあってはいけないことだと思います。結局、僕は(公的な介護の申請が通るまでの期間)180万円を自費で払いました。障害者自立支援法とは、障害者の日常生活、および社会で自立を目指す法律のはずです」

しかも、もし当選して政治活動を始めたとしたら、現在利用している障害福祉サービスが受けられなくなる懸念も語った。

「なぜなら自立支援法(現在は障害者総合支援法)と言いながら、職場にヘルパーがついていくことは禁じられているからです。障害者は働くなと言うことでしょうか? この部分は絶対に変えなければいけません」

「障害者が仕事を持つことこそ、自立支援だと思います。それなのに、歩けない人のお手伝いがなぜ法律で禁じられているのか。全身麻痺でも働ける障害者はいます。能力はあっても国の法律で制限されても良いのでしょうか?」

さらに、慢性的なヘルパー不足があることを指摘し、介護職の待遇改善をしていくことを訴え、5年前に松戸市議選に立候補した時のスローガンを掲げて締めくくった。

「強みは障害者。だから気づけることがある。僕が議員になったら、全難病患者、障害者を幸せにするために働きます。全難病患者、障害者が幸せな社会はみんなが生きやすい社会です。人の価値が生産性で測られない社会を目指します」

木村英子さん 生後8ヶ月の事故で重度障害者に

木村英子さんは、生後8ヶ月で、歩行器ごと玄関に落ちて脊髄を損傷し、車いすの重度障害者になった。車いすで壇上に上がり、自身の口で立候補の理由を訴えた。

「障害も年々重くなっているので正直とても迷いました。心の中には障害者の厳しい現状を打開するためには、障害者が国会に出なければならないという確固たる思いがありました」

「でもそれが私でいいのかと言う自問自答する日々でしたが、このチャンスを逃したら重度の障害者が国会に参加できないと思い気持ちが固まってきました」

そして、1970年代から障害者運動を続けてきた先駆者たちが亡くなり、介護保障の権利が制度改正で危うくなっていることが決め手だったと明かす。

「激しい障害者運動で勝ち取ってきた介護保障が、65歳からの高齢者を対象とした介護保険に統合されそうになっている現状の中で、地域で自立生活をしている各地の障害者から、これまでの生活が壊される、助けてほしいという相談が増えて、なんとかしなければと強く思ったからです」

施設や養護学校での生活を強いられた子ども時代

木村さんは今、障害者の自立支援の活動を続けているが、それは自身の経験がベースにある。

「物心ついた時から施設と養護学校で育ちました。私たち、障害者は施設に入りたくて入ったわけではありません。そこしか生きる場がないのです。障害者を抱える家族は、毎日介護をし続けることに疲れ、体を壊し、介護ができなくなり、最後は私たちを施設に預けるしかありません」

「施設に預けられなかった場合、一家心中を図ったり、我が子の障害者を殺してしまったりすることもあります。私の場合も例外ではありません。国は今まで障害者の責任をずっと家族だけに負わせ、ずっと社会から孤立させてきました」

「そして、私たち障害者が、地域で生きていける環境を作らなかったせいで、やっとの思いで施設から地域に飛び出してきても、介護者がいなければ、施設に行かされてしまうのです。私はもう絶対に施設に戻りたくはありません。その思いで必死で地域で生活をしています」

「しかし、この自立生活はとても危ういものです」と木村さんは続ける。

介護保障制度がなかった時は、街頭で介助をしてくれるボランティア募集のビラを配って、人手を確保するしかなかった。現在は障害者自立支援法ができ、介護制度が整ってきたが、それでも生活が安定しているわけではない。

「人手不足は深刻で、特に重度の障害者の生活は逼迫しています。このままではせっかく施設から飛び出し、やっとの思いで地域での自立生活を実現したのに、私たちの生活は壊されそうになっている。この現状をどうにかしなければと思い、命がけで選挙に出ることを覚悟しました」

障害児と健常児を分け隔てないインクルーシブ教育を

国会議員になったらやりたいこととして、今、施設や親元を離れて地域で自立生活をしている障害者の生活改善のために、いくつかの柱を訴えた。

まず、障害者福祉制度と介護保険制度の統合に反対するということだ。

「障害者福祉制度と介護保険を統合しようとしている国の動きの中で、障害者施策で、自分に合った必要な介護を受けてきた人が65歳になった途端に介護保険に組み込まれ、介護時間を減らされて命の危機にさらされる生活を強いられています」

「介護保険と障害者制度は全く違います。障害者制度は、障害者の生きる権利と、地域で生きるための社会参加も保障されている制度です。一方、介護保険は家族介護の負担を軽減するための制度であり、障害者の自立と社会参加を保障する制度ではありません」

「障害者は、65歳になってから高齢者の介護保険に組み込まれてしまったら生きていくことはできません。その上深刻な人手不足で介護者が足りず、お盆や暮れには施設に入らざるを得ない障害者が増えてきています。この現状を変えていくために私は介護保険と障害福祉の統合に反対していきたいと思います」

次に、地域で障害者が当たり前に生きるために重要なこととして子どもの頃から障害児と健常児を分けない、「インクルーシブ(包括)教育」を掲げた。

「18歳まで施設の養護学校で育ち、一人で外に出ることはありませんでした。幼い時から健常者と分けられて生きてきました。分けられて生きていくことがどんなに恐ろしいことかを、私は地域に出てきて差別されるたびに思い知りました」

「私は電車の切符の買い方も知らない、歩道と車道の区別もつかない、障害を持っている自分が恥ずかしくて人に声をかけられない。そんな何も知らない私が生きていくためには、社会にはあまりにもバリアが多く、とても冷たいものでした。社会と断絶させられ、何も教えられてこなかった18年間の空白を取り戻すのに35年もかかりました」

「施設から飛び出し、地域で自立して人の視線を恐れずに生きていくように少しはなりましたが、私は幼い時から受けてきたトラウマと弊害に今も苦しんでいます。障害があるというだけで子供を分けていいはずはありません。もう私のような子供たちを増やしたくないんです」

「だから私は養護学校、今の特別支援学校を分ける教育には反対です。どの子も分けられず、地域の同じ学校に通い、共に学び合える教育を実現するためのインクルーシブ教育を進めていきたいと思います。もし幼い時から分けられずに一緒に遊んだり、喧嘩したり、泣いたり、笑ったりできる環境があったなら、差別をしないでお互いを認められる優しい社会になると信じています」

障害者差別解消法の「合理的配慮」を全国に

さらに、障害者と健常者が共に生きる社会を実現するためには、2016年にスタートした障害者差別解消法が定める「合理的配慮」を全国に広げていくことが必要だと訴えた。

「例えばスロープやエレベーターをつけるなど、交通や建物、学校教育、病院、情報、防災、障害者に対する理解、そのほかあらゆる社会の生活全てにおいて、バリアをなくすための取り組みを合理的配慮と言います」

「重度障害を持つ私たちの仲間が、体の緊張を少しでも和らげるためにスーパー銭湯に行った時、そこで車椅子での入店を拒否されました。車椅子で外食に行っても、混んでいる時間は断られたりします。ただ、普通に旅行に行くだけなのに行く先々で差別をされて、悲しい思いになることが多いのです」

「障害者差別解消法が施行されて3年が経ちましたが、私たち障害者が地域で安心して生きていけるようになるには、程遠い道のりがあります。皆さん、なぜだと思いますか? それは法律を作った国会自体がバリアだからです」

「本来なら、国が率先して差別をなくす取り組みをしなければなりません。差別をなくすために合理的配慮を全国に広げていけるように国会に訴えていきたいと思います。この合理的配慮が整わなければ、私たち障害者は、地域に参加することも生活することもできないのです」

そして、こう締めくくった。

「地域に参加できないと言うことは障害者と健常者を分けることにもつながり、差別を簡単に生み出します。そして親が介護できなくなれば、地域に住める環境が整っていないために、私たちは施設に入るしかないのです。ですから私たちは健常者と同じ権利が保障され、障害者が当たり前に地域で生きていける社会を目指して頑張っていきたいと思います」

2人はれいわ新選組の比例区から立候補している。

車いすの元パラリンピック選手、聴覚障害の元区議も

今回の参院選では、野党統一候補として岩手選挙区に新顔で元パラリンピック選手の横沢高徳さん、立憲民主党の比例代表から元東京都北区議の斉藤里恵さんも立候補している。

横沢さんはモトクロスの選手だったが、練習中の事故で脊髄を損傷し、車いすでの生活となった。社会保障の充実や、社会のバリアフリー化の推進などを訴えている。

斉藤さんは1歳の時に病気で聴覚を失い、銀座のクラブで筆談で接客する「筆談ホステス」として活躍後、2015年5月から2019年4月まで東京都北区議も務めた。区議会では「音声同時翻訳ソフト」を全国で初めて導入し、他の議員や職員のやり取りをタブレットで読んでやり取りしたという。

参院選では障害者福祉の充実や子育て支援などを訴え、最後の訴えでは手話通訳らと登壇し「耳が聞こえない、目が見えない、一人で子育てをすることはどんな課題があるのだろう」と問いかけ、様々な立場に置かれた人々の声を国政に届けたいと語った。

なお、身体障害者が国会議員となった例は、これまでにもある。例えば、「車椅子の司会者」として知られた八代英太氏だ。

1977年に参議院に初当選。その後、自民党所属の衆院議員となり、郵政相などを務めた。

UPDATE

斉藤さんの最後の訴えを追加しました。