『自炊力』(光文社新書)がヒット中のフードライター、白央篤司さん行きつけの店で、昼間から飲みながらじっくりお話を伺うというこの贅沢な企画。
白央さんが選んでくださったのは、東京・五反田の広島地酒とお好み焼きの店「ほじゃひ」です。充実した野菜の肴をつまみながら、話は白央さんの出発点にさかのぼります。
なぜ食のライターに?
ーーそもそも食のジャーナリスト、食のライターになられたのはどういうことがきっかけなんですか?
何か一つ専門性を持ちたいなと思ったんですね。
自分が広範囲に興味を持てるものは何かを考えたら食だったんです。
あと、これはあくまで自分の思いですけど、フリーになった以上は自分の書きたくないこと、興味のないことは仕事にしたくないというのがありました。それだったら会社員でいいんです。貧乏でいいから、自分の興味あることだけを取材して、書きたいと思いました。
ーーライターとしての出発点はどんな場所だったのですか?
最初は会社員として編集をやりました。それこそなんでもやったんですよ、食以外の記事作り。
ーー食以外の分野も手がけていたんですね。
インテリアとかビューティーとか、漫画とか色々です。それでね、人の原稿を毎日読むでしょう。そしたらどんどん、自分で書きたくなっちゃったんですよ。
ーー食の分野を書こうと最初から決めていらしたんですか?
最初は週刊誌のライターをやりました。
自分は仕事を待っていることが苦手で、「こういうのを取材したら面白い記事になるかも」と、どんどん企画を出すわけです。その企画がOKをもらったら、お金になるわけです。それが結果、食べ物の話ばかりになった。
最初の頃やったのは、「こんな店が最近面白いらしい」とか「話題の食材」というテーマですね。その時その時で例えばパクチーが流行ったら、どこだったら面白いパクチーの料理があるかなと探して取材。
まだ週刊誌にお金があった時代ですから、エスニック特集で東西10軒みたいにピックアップして、大阪京都日帰り取材とかよくやっていましたね。カメラマンさんと組んで。
――そういうお店の情報源はどこから?
食べ歩きが好きな人達とのつながりが昔からあったんです。大学時代に小劇団活動なんかしてたんですが、そのとき参加していた人がものすごい食通で、今では料理家さんになっていますけど、その人を通じていろんな人を紹介してもらったんですね。
「〇〇料理、どこがおいしい?」と聞くと、全国の情報がすぐ数軒は集まる、というネットワークはそのころ培いました。20代、30代はそんな人たちととにかくよく飲み歩いてましたね。
飲食店のアルバイトで身につけた食べ物の知識
ーーそれにしても学生時代から飲み歩くなんて、お金がよくありましたね。
バイト代はすべて飲食費でしたね。他に興味がないからその点では楽なんですよ。服も車も興味ないし、ギャンブルもやらないし。本を読むぐらいでね。
ーーアルバイトも飲食店ですか?
そうそう。イタリアンなり韓国料理なり、興味もったらそのお店でバイトするのが知る上では一番早い。作るところ見られるんですから。それでお金までもらえる(笑)。
フレンチもイタリアンも、タイ料理もスペイン料理も、韓国料理でもバイトしました。
調理じゃなくてホールです。私は接客が好きでね。接客で認めてもらえるとコックさんが仲良くしてくれる。そうすると質問してもどんどん答えてくれる。お客さんに説明するわけですから情報が必要ですし。
向こうも料理が好きな人が基本多いから、料理のこと訊かれると話に花が咲く。コックさんと仕事終わってから飲みに行って、朝まで料理談義したこと何度もありますね。勉強という意識は全然なくて。楽しかったな。
30代はじめに独立
ーー学生時代から、そういう食体験の蓄積があって、食に関心が深まっていったんですね。
30歳になって「書きたい」という気持ちが強まり、フリーランスで活動しだしました。でもボーナスの出る生活はやっぱり魅力的でしたね。年を重ねたらもうフリーになれないだろうな、と思いましたよ。早く辞めなきゃと。
ーー楽に甘んじちゃだめだと。
やっぱりお金が安定しているのはいいことですから。
ーーそもそも、ご家庭でもお料理が上手だったんですか?
料理するのは好きでした。あ、こんにゃくが来たから熱いうちにいただきましょう!
忙しい父と専業主婦の母 昭和50年代の食卓で育つ
ーーおお、ねぎこんもりですね。ああ、こんにゃくも美味しそう。ところで親御さんのお料理はどんな感じだったのですか? ご自身が小さい頃に食べてきた料理は。
うちはごく普通の和食が多かった。母は新潟・下越地方の農家の出です。けれど時代が昭和50年代の半ばごろなので、やっぱり洋食とか「外で食べるおいしさを自宅で」みたいなノリはありましたね。
母は料理好きで『暮しの手帖』を揃えているような人で、栄養意識も高くて。昔のお嫁さんなので、料理教室にも通っていたようです。
ただ、父は凝ったもの、こってりしたものとか洋物がすごく苦手で。だから僕がいる時だけですね。父は保険の営業職で毎日帰ってくるのが遅かったから、私にはハンバーグもシチューも出てきたけれど、父がいる時は湯豆腐とか。
そう、豆腐が父の好物。「料理教室にせっかく通ったのに、あの人はしゃれたもの作っても残して、湯豆腐とイカリングさえあればいいから、やりがいがなかった」って母はブツブツ言ってました。
ーー我が家と似てますね。ごきょうだいは?
僕一人です。だから、母は僕のためにご飯を作るという感じでした。
ーー料理のお手伝いとかしてました?
いえ、それは全然。
ーーその頃は男の子は台所に入らなくていいよという空気がありました?
小学校3年生の時にサラダ作りにハマったのを覚えています。
ーー家庭科の影響で?
何がきっかけか忘れましたが、盛り付けが楽しくて、コーディネートするのが楽しかったです。タマネギも切り方によって形が変わる。同じ内容でも盛り付けによって見栄えが全然変わるし、レゴブロックを組み立てるような面白さがありました。
料理の楽しさと母の誇り
フルーツの缶詰あるじゃないですか。小学生のとき、それをサイダーに入れたら楽しいなと思って、グラスにソーダと缶詰のミカンやらサクランボ入れたんですよ、シロップと一緒に。
キンキンに冷やそうと思って冷凍庫入れたんですけど、入れたこと忘れちゃったんですね。そしたら甘いから完全には凍らない。フラッペみたいにして食べたんです。
これがうまくてね。母にも褒められて、友達呼んで食べさせて好評で。あのときが人に食べてもらった初体験ですね。それがなんか、原体験なのかもしれない。
ーー標準の作り方でないオリジナルな方法を編み出した。その頃から料理の楽しさに目覚めたんですかね。
どうでしょうね。ただ今では月に数回友人知人を招いて、家でごはん会をやっています。
ーーお母さんは色々工夫していましたか?
色々教えてくれてましたよ。こうやって作るんだよと。
それから、父が夜に部下や上司をフラッと連れて帰ってくる。昔のお父さんって連絡なしにパッとお客さんを連れてきてましたね。母はそれを怒りつつも、冷蔵庫にあるものでパパパっておつまみ作るんですよ。
僕はそれを見て、かっこいいなと思ったんです。「お母さんすごいね」と言ったら、「こういうことができないとダメなのよ」みたいなことを言ってね。ふふふって得意げだったのを見て、あれは何か今思うと、そこが母のアイデンティティというか、社会とつながっている意識だった気がするんですよ。
ーーお母様は専業主婦だったんですか?
完全な専業主婦。それが、父の部下の人たちから「すごいですね」「美味しい」って言われるわけじゃないですか。お世辞かもしれないけれど、彼女にしたら家族以外から感想をもらえるのはとても嬉しかったと思う。
家にあるもので人に出すものを作るというのを見て、強く影響を受けた部分はあります。ただ翌朝父はかなり母に責められていましたね(笑)。
食のジャーナリストではなく、食のライター
ーーそれにしても三つ子の魂百までじゃないけれども、小学校3年生でのサラダ作りにハマるというのも面白いですよね。プラモデルとかにハマる頃に。
僕、不器用なんですよ。プラモデルで美しい仕上がりにならないんですね。みんなが作っているのを見て、こんな細かいことやるの嫌だなと思ってやめました。
ーーでも料理の盛り付けにはハマった。
あれはざっくばらんでいいんですよ。だからと言って、料理作りにハマるわけでもなく。
ーー料理にハマるのは高校生の頃ですね。
そうですね。高校生ぐらいには、得意料理が何品かありました。
ーーそれが食のジャーナリストとしてやっていく芽生えのようなものだったんですかね。
私はジャーナリストという意識はないですね。そんな風には名乗れない。
ーーじゃあ何ですか?
フードライターです。
ーーその呼称のこだわりは?
ジャーナリストって、やはり松永和紀先生のような、使命感と情報伝達に強い意識をお持ちのかたを指すと思ってるんです。
僕もそういうものは持っているつもりですけれども、発信したいことは情報や現状、状況よりも「私」が強いんですね。自分がどう思うか、どう感じるか、もっと空気的なこととか。そういう人間はジャーナリストとは名乗っていけないと思います。
ーー確かにジャーナリストは強い言葉ですね。
でもね、フードライターだって強い言葉だと思いますよ。
専門家です、と看板掲げるわけですからね。常に「そんなことも知らないのか」的なお叱りの言葉をいただくこともある。
けれどそう言い切って、言い切った以上はもっと勉強しないとなと後戻りできないようにすることも必要じゃないかと思って、30代後半からフードライターと名乗るようにしました。専門性を持たないとダメだろうなと思ったんです。
フリーになって、週刊誌で食べ物の企画を出しては結構いい打率で通っていたんです。編プロの時代よりも収入がいい時代もあって。でもだんだん食の記事が少なくなっていった。よりエッチ路線とか、「飲んではいけない薬特集」とか、そういうきついものじゃないと売れないから。
ましてや食べ物取材は、そこそこコストがかかるんです。レストランではご飯代がかかりますし、出張費がなくなりもした。
そこで商売替えを本気で考えるか、逆に道を絞って、「食べ物専門で書きます」と宣言して仕事をもらう方がいいんじゃないかと悩んだんです。食べ物の専門家ですと看板をあげないと、読んでもらえないだろうと思ったんです。
専門誌に書いたが「やりたいのはこれじゃない」
ーー専門の料理雑誌にも書かれた時代がありますね。
主に料理店のレポートですね。そこがフードライターって始まりでもあり終わりでもあるんです。基本ですよね。たくさん勉強させていただきました。そのプロになる、というのもひとつの生き方ですが、私はそれはできないと思いました。
自分が好きじゃない店を紹介するのって耐えられないんですよ。エッセイやコラムを書けるようになりたいという思いはずっと強くありました。中学時代から、コラムニストの中野翠さんのファンなんです。
ーー私もです! 全部本を持ってます。
彼女のように、自分の目線と感想で人が楽しんでもらうものを書きたかったんです。だけどそういう文章が一番難しいと思うし、とりあえず書かないと始まらないという思いから、mixiやブログを書き始めました。
その後、Twitterを本格的に始めたのが7年前です。フードライターと名乗ってつぶやいていたら、「あの人は何か食べ物について面白いこと言う」と思ってくれる人がパラパラ出てきて、料理家さんや料理編集の人とつながり始めた。でもそれは一度には起こらなくて本当にゆっくり広がっていきました。
ーー専門誌の仕事だとそんな風に自分を前面に出すことはできないわけですね。
料理雑誌やグルメ雑誌でも仕事をしたのですけれども、こういうページにこういう文章が欲しいというリクエストがあるわけなんです。そこに取材してきたものを当てはめるというのが、ライターの王道でもあるわけです。
ーーなるほど。注文通りに応える。来た球を打ち返す仕事ですね。
私たちの仕事の基本中の基本ですよね。それができなきゃダメです。
けれどね、どうしてもなんか自分が出ちゃうんですよ。「“あなた”は要らない。事実だけを書いてください」と言われて、そのときはショックでしたけど、あの編集さんはプロだった。黙って直しちゃう人のほうが多いですもん。育ててもらいましたね。そこで「こういうの書いてちゃ自分はつらいな」と思えました。
「私」が出てる文章を愛でて採用してくれる編集者増やさないとダメなんだと痛感しましたね。その頃とブログやミクシィ隆盛時代がリンクしてたのはラッキーだったかもしれません。
それで自分のレポートをやるしかないなと、ブログとかツイッターを始めたんです。
いまやっている仕事やこれまで出した本はすべてツイッターからのご縁です。なんの意図もなしにつぶやいたこと、書き留めたことを読んでくれた知らない編集者が「これを本にしましょう」「こういう企画が白央さんに向いてると思うんだけど、どう?」とプロフィール欄に載せているアドレスにメールしてくれたんですね。
でも、それはここ3年のことです。それまでは本当に綱渡りで、不安だった。
惨めったらしい気持ちにならないように鍛えた自炊力
ーー一応生活はできていたわけですよね。
カツカツですよ。家賃払って、自炊力を地でいく感じです。
日本酒頼みましょうか? 疋田さん、お手隙でお酒をお願いします。
(店主「お猪口二つで?」)
いいえ、それぞれ徳利1つで手酌でいきましょう。私たちものすごくピッチ早いから(笑)。
(店主「今日お二人は初めての顔合わせですか?」)
ーーこの間、打ち合わせと称して飲み会をしましたね(笑)。
その時も三軒行きましたもん(笑)。そんな打ち合わせしなくていいだろうぐらい飲みましたね(笑)。なんだっけ、なんの話だったけ?
ーー最初の頃は、自炊力を地でいく生活をしていたという話でした。
今でもそうですけど、基本は「特売品と見切り品だけでメシ作り」というスタイルはそのとき養われました。食べること好きですから、安くあげても“自分なりに”おいしくありたい。自分が満足できればそれでいいんです、自炊力は。
ーーその時はまだ一人暮らし?
もちろん、もちろん。ツレと出会って、西川口に移ったのが3年前です。41歳まで一人暮らしでワンルームで、渋谷と池尻の間ぐらいに住んでいました。遅くても早くても、大きい駅の近くに住んでいると楽なんですね、この仕事。新宿駅の近くにも住んでいたこともあります。探せば安いところがある。
ーーその方がタクシー代もかからないし。
タクシーなんてお金ないから使えませんよ。最終で渋谷駅にたどりついて、15分ぐらい歩いて帰る。運動不足の解消にもなるし。歩くことはそもそもまったく苦にならないんです。これ言うと驚かれますけどね、よく新橋で仕事してたんですけど、渋谷まで歩いて帰ること多かったな。昼下がり、春や秋の気候のいいときはよく歩きました。
ーーどのぐらいかかります?
1時間半ぐらい。すごくいい散歩コースなの。新橋から虎ノ門、愛宕山を抜けて、六本木一丁目から骨董通り抜けて宮益坂。楽しいんです。
そのコースだとね、たくさん飲食店があるんですよ。営業していない時間のレストランって、その店の「素顔」が出る。別に観察しようと思って歩いてるわけじゃないですけどね(笑)。ただ出入りの業者さんと話してるときとか、中休みって店の人間の本当の部分が見えます。
ーー節約するために歩いた道も飲食店を観察する機会になっていた。
東京のエリアごとのスーパーを見ておくにもいいんですよ。値段のつけ方や置いているものの違いを見て、こんなに高い魚やお肉や野菜を買っている人もこの世にはいるんだなとか。逆もまたしかりで。スーパーを見るのは本当に勉強になる。
家賃が8万円だったんです。家賃を払って光熱費を払ったら手元に残るお金は3万、4万とかざらで。その時に、1日500円の食費と考えたり。
収入はなかったし、今だって変わりません。けれど、ごはんを工夫することで惨めな気持ちにはなりませんでしたね。
美味しく楽しく。貧乏ったらしい気持ち、惨めったらしい気持ちになるのが一番嫌だったから。そうなっちゃうと気持ちが小さくなっちゃうと思うんですよ。そこでやっぱりご飯を作ることができることが必要になる。
そのころがあったから食材の使いまわし、リメイク術、保存法やらのことを覚えられたと思います。売り場の人に「どう調理したらいいの?」ということもよく聞きました。そういうこと、ドンドン尋ねたほうがいいんです。そうやって顔見知りになっていくと「きょうはこれ買ったほうがいい」とすすめてくれることもありますよ。
ーーそれはある意味、取材のようなものですね。
そうですね。向こうも忙しいですから面倒くさがられることもありますけど、時折いい話が聞けることもある。ご迷惑で申し訳ないけど、私は買い物してる人に質問することもよくあります。「これどうやって料理するんですか?」ってね。
地方のスーパーに行ってめずらしいものがあると、「これどうやって料理するんでしょうか?」なんて訊くとけっこう教えてくれるんですよ。郷土料理って大枠の作り方は一緒でも家庭ごとにディテールが全然違うから、細かい聞き取りが大事です。
ーーまさに『自炊力』の原点のような生活でしたね。
そうですね。
(続く)
【白央篤司(はくおう・あつし)】フードライター
1975年、東京生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。出版社勤務を経てフリーに。日本の郷土食やローカルフード、「暮らしと食」をメインテーマに執筆。著書に『にっぽんのおにぎり』(理論社)、『ジャパめし。』(集英社)、『自炊力』(光文社新書)がある。メシ通、CREA WEB「白央篤司の罪悪感撲滅自炊入門」、農水省広報誌等で執筆中。公式ブログ「白央篤司の独酌ときどき自炊日記Ⅱ」。Twitterは@hakuo416。