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たった一人の家族を亡くして 支えてくれたのは母の手紙と人とのつながり

母を亡くして将来の不安やうつに苦しむ山崎雅也さん。母が遺してくれた手紙と共に今日も生きている。

度重なるがんと戦った母を2018年1月に亡くした山崎雅也さん(37)。

母から遺伝性がん「家族性大腸ポリポーシス(FAP)」の体質を遺伝した山崎さんは、病への不安を抱え、たった一人で残されて心の調子を崩してしまう。

そんな時に自分を支えてくれのは、母が自分の将来を想って遺してくれた手紙と人とのつながりだった。

「天涯孤独になった」 大将にかけた電話

2018年1月29日、たった一人の身内である母を亡くして、山崎さんは途方にくれた。

葬式を出すにしても呼ぶ人がいない。

その時、なぜあの「大将」を思い出したのかはよくわからない。

時折、暇つぶしにするパチンコ店で顔見知りになり、ジュースの奢り合いをするような付き合いとなった造園業の親方だ。

妻を7年前にがんで亡くし、子どもがいないというその人に可愛がってもらい、「大将」と呼んでいる。

3年ぐらい前に「仕事が暇な時に手伝いに来んさい」と誘ってくれ、数日手伝いに行ったこともあった。

母が亡くなる前、仕事の手伝いに行った時、スーパーの握り寿司を買ってくれて「うまいけえ、母さんに食べさせてやれ」と自宅に寄って母に渡してくれた。

「母も喜んでいました。ありがとうございます」とお礼を言うと、「礼なんてわしに言う必要はないんよ」と言ってくれた。

母を看取った夜、一人で家に帰り、なんとなく大将に電話をした。

「あの時のお寿司、ありがとうございました」とお礼を言うと、「その話ばかりするのう」と笑って返した。「実は今日、母が亡くなったんです」と告げると、「よう言ってくれたのう。葬儀はするんか?」と聞いてくれた。

「31日にします」と言うと、葬儀の日に来てくれた。棺を霊柩車に運ぶ時は、葬儀屋のスタッフ二人と一緒に担いでくれた。

「だから僕は遺影を持ったまま助手席に乗れました。だから大将には足を向けて寝られないんです」

住む場所もなくなる? 「母さんに会いたい」と自殺未遂 

親戚づきあいとは縁が切れており、本家に連絡すると、「墓は入れてやるし、初盆には白い盆灯篭を出すけれども、それ以上は一切する気はない」と突き放された。「天涯孤独の身になった」と実感した。

その後、しばらくどうやって生きていたかも覚えていない。

四十九日の納骨を終えてから、自暴自棄になって遊びまくった。

貯金も尽きた頃、追い討ちをかけるように母名義で住んでいた公営住宅から、「これからも住み続けるには親族の保証人が必要です」と言い渡された。

相談した大将は、「役所に交渉して見つからなかったら俺がなってやる」と言ってくれていた。でも、親族から見限られているぐらいなのに、他人にそんなに甘えられない。家族も失い、家も失う。自分にはもう何も残されていないのだと感じた。

ふと、四十九日の法要で寺の住職から「もうお母さんは浄土に行って懐かしい人たちと会っている」と言われたことを思い出した。

「僕もそこに行きたい。母さんに会いたいと思いました。死の向こう側に行けば会えると思ったんです」

母は40代半ばから、統合失調症も抱えていた。2018年の5月連休の最後の日、母が残していた19種類の薬の1ヶ月分を一気に飲んだ。

昏睡して目覚めたのは2日後だった。ベッドの下で体を動かそうとしたら足がほとんど動かない。手だけでリビングを這って入院に必要な下着などを用意し、119番にかけて救急車を呼んだ。

「人間の生存本能なのでしょうね。家の鍵も渡して、救急隊員さんに鍵もかけてもらいました。よほど生きたかったのでしょう」

運ばれたのは母が亡くなり、自分もかかっている広島大学病院で、そのまま3週間入院した。抗精神薬を大量に飲んだ結果、体が動かない「悪性症候群」の他、脱水や肺炎も起こしており、「1日遅れていたら死んでいたよ」と言われた。

普段から家族性大腸ポリポーシスを診てくれている消化器内科の主治医が診察した。先生は母が亡くなったことも知っていた。

「一人になって寂しいという気持ちは全部わかってあげることはできないけれど、でも山崎君が今生きているということは、多分そういうことなんじゃないかなと思います」と言ってくれた。たぶん、かける言葉がないのだろうと思ったが思いやりを感じた。

生きるための具体的な支援 生活保護や仕事 

退院が近づくにつれ、やはり憂鬱になった。

「退院したらまた一人になるんだ。住む場所もなくなるかもしれない......」

しかし、病院の医療ソーシャルワーカーが役所と精神科に連絡を取ってくれて、退院する時は役所の人も付き添って、精神科に寄ってから自宅に帰ってくれた。役所の人はそれ以降、親身になって相談にのってくれた。

結局、退院後に生活保護も受給できることになった。

公営住宅の保証人については、大将が役所に掛け合ってくれて、住み続けられることになった。

そして、「俺の仕事を手伝わないか?」と声をかけてくれた大将のところで、働き始めることにした。

生活が回り始めた。

揺れ動く心 支えたのは母の手紙

それでも、その後も落ち込むことはある。

十二指腸に数多くのポリープがあることがわかっており、近くまた手術を受けなければならないと主治医には言われている。

2018年の11月頃、「去年の今頃は母さんがいた」と落ち込んで、処方されている精神科の薬を飲み過ぎた。救急車で運ばれて治療を受けたが、孤独感は収まらない。

そんな時、ふと読み返したのが母の残した手紙だった。

まさや君がどんな子になろうとも

どんな人生を歩もうとも

私はいつも見ています

悲しい時も つらい時も きっとあると思う

だけどくじけないでしっかりと立ちなさい

あなたの人生はあなたのものだから

それからもうひとつ

決して 決して 自分の命を粗末にしてはいけません

人生を投げ出さないで一度しかないのだから

途中で 死など考えてはいけません

それだけは許しません

思い切り生きなさい

Twitterで母の手紙を公開

そして、自身の病気のことと共に、Twitterで母の手紙を公開した。

この手紙をタイムラインで見かけて、山崎さんに関心を持ったのが東京にいる私だ。

最初は、「仕事を終えて飲む酒は最高」という私のつぶやきに対し、「健康な人はそれができて羨ましいですね」と批判するリプライを山崎さんが入れたのがきっかけだった。

「社会的信用もあって、家族もいて、酒も飲める。いい身分じゃのうと突っかかった(笑)。当時はフォローもしていなかったし、なんで岩永さんだったかはわからない。たぶん、リツイートで記事が回ってきたのでしょうけれども、縁なのでしょうかね。まさか返事が返ってくるとは思わなかった」と山崎さんは笑う。

私が山崎さんのタイムラインを見にいくと、プロフィール欄に家族性大腸ポリポーシスの患者であることが書いてあった。私は以前、この病気を取材したことがあり、患者会情報などのメッセージを送って交流が始まった。

「死にたい」と繰り返しTwitterでつぶやきながら、生き抜くように語りかける母の手紙を何枚も公開し続ける山崎さん。

そんな山崎さんのことをもっと知りたくなり、取材を申し込んだ。

広島に出張に行き、広島大学病院の共用スペースで2時間半話を聞いて書いたのがこの記事だ。

取材前の今年1月、「めげそうになったけどなんとか生きていくよ。私は死なない」と固定ツイートにしているのも見かけた。

「自分を愛する気持ちがまだ残っているのだろうと思います。遺伝性の病気も成り行きに任せるしかない。天涯孤独であることは変わらないし、病気を持っていることも変わらない。それでも明るく生きるしかない。そんな気持ちで、なんとなく母の手紙をアップしたのだと思います」

その後も、上がり下がりはあるけれど、山崎さんは体調を崩しながらもなんとか生きている。その傍らには母の手紙がいつもある。

「幸せになってね 笑っていてね」

幸せになってね 幸せになってね

誰よりも 誰よりも

どんな事があっても心だけは貧しくならないで笑って生きて行こうね

雅也君の笑っている顔が一番好き どんな顔よりも笑顔が一番最高!

雅也君 お母さんの事好きだよね お母さんも雅也君が一番好きだよ

一番好きだよ この世で一番好きだよ

どんな人生になろうともくじけないで

あなたが悲しいと私も悲しい あなたが涙流すと私も涙が出てくる

だけどあなたが笑ってると私もうれしい あなたがよろこんでいると私も幸せ

いつまでもいつまでも見ているから

遠くの空の上から見ているから

空を見て 星を見て 雲を見て 月を見て 空にあるもの何でも見て

お母さんが見えてくるかもしれない

きっといつか逢える日が来るから

ずっとずっと先の事だけどきっと逢えるから

あなたがもっともっと年をとってからその日まで元気でいてね

幸せになってね 笑っていてね 私の雅也君

(終わり)

表現を一部改めました。