母から遺伝性のがん「家族性大腸ポリポーシス(FAP)」を受け継いだ山崎雅也さん(37)。
母は28歳の時に、自身は小学校6年生の時に大腸・直腸を全摘する手術を受けて、しばらく穏やかに暮らしていた。
しかし、この体質を遺伝すると他の消化器などの臓器にも腫瘍ができやすくなる。
母も自身も、その後、度重なるがんに苦しむことになる。
母は39歳で十二指腸と膵臓がんに 自身も相次ぐ手術
母の恵子さんは39歳の時、背中が痛いと訴えるようになった。十二指腸と膵臓にがんが見つかった。雅也さんが17歳の時だ。この時も手術を受けて、がんが見当たらなくなる寛解に持ち込んだ。
当時、高校生だった山崎さんは髪を明るい色に染めたり、たばこを吸ったり、悪いことをしてみたい盛りだった。母はそんな息子に「膵臓がん」とは伝えていなかった。
しかし、母が病気に倒れると、入院していた2ヶ月間、家事も全てやらなければいけないし、母の入院の世話もしなければならない。見舞いに行くと、「あんた、たばこの匂いする。補導されるようなことはしなさんな」と叱ってくれた。母に心配をかけまいと、道を踏み外さずに済んだ。
そして、自身も体調不良が続く。
24歳の時には、夜、家で過ごしている時に急にお腹が痛くなった。車を運転して大学病院に行き点滴をうって帰ったが、痛みが治まらない。
午前0時ごろに耐えきれず再び救急車で病院に行くと、小腸が壊死して酷い腹膜炎を起こしていることがわかった。緊急手術をし、1週間、ICU(集中治療室)に入り、命を取り留めた。
「こんな体質なので、母に病院に行きなさいと言われて年に1回は通っていたんです。でも、20代前半になると仕事や恋愛が楽しいしお金が入ると遊ぶし、通院がおざなりになっていました。きちんと通わないと怖いことになると実感しました」
27歳の時には胆のうを摘出し、十二指腸にできた腫瘍を内視鏡で取った。
34歳の時には再び十二指腸、胃、十二指腸と3回手術をした。手術の合併症で腸閉塞も繰り返し、癒着を剥がす手術も受けた。入院と手術ばかりの青春時代だった。
入院仲間との交流 支え合いとストレスと
それでも心を持ちこたえていたのは、自分よりも重い症状に苦しむ患者仲間を何人も見送ってきたからだ。
「それに比べたら自分なんてずっとマシな方じゃと思ってきました」
肝臓がんで入院している60歳の男性とは、病院の庭の東屋でこっそりたばこを吸っている時に、ポツポツ話をするようになった。金箔を貼る職人だったその男性は、「喫煙者は肩身がせまいよな」とよく話しかけてくれ、仕事のことや家族のことを語り合った。
男性が亡くなった日も虫の知らせか、たまたまその人に会いに病院に行った。意識不明の状態で、家族と一緒に臨終の時に居合わせ、霊安室まで見送った。男性の娘たちに請われて、仮通夜も一晩中付き添った。
肺がんで膵臓にも転移していた60代の建築会社の社長の男性は、入院中、自身の特別個室に「やまちゃん、来んさい」とよく声をかけてくれては、可愛がってくれた。
自身が退院してからも、「やまちゃん遊びに来んさい」と声をかけられるので、仕事が終わった午後10時頃によく訪ねて行った。朝の6時までたわいもない話をして語り明かすこともあった。
ある日、いつも明るいその人が、ポツリとこう漏らしたのが忘れられない。
「長生きするつもりはないけど、今、この病気になる予定じゃなかったんじゃ」
山崎さんは男性の手を握って、「来年も再来年もこうやって話しているような気がしますよ」と答えるのが精一杯だった。「ありがとう。頑張ってみるよ」と答えたその男性も、間もなく亡くなった。
一方、病棟の狭い世界で、人間関係がこじれたこともある。
同じ時期に入院していて付き合い始めた難病の女性が、自分を独占したかったからか、あちこちに嘘をついては他の入院仲間と自分を仲違いをさせようとしていたことに気づく。
「結局、仲直りはしたのですが、自分がショックだったのは『車いすに乗っているような可哀想な女性が自分に嘘をつくはずがない』と、知らないうちに差別をしていたのに気づいたことです。病気によって人を弱者として見ていた自分にショックを受けました」
そこに可愛がってくれた60代の男性社長の死が重なり、ストレスで不眠がひどくなった。放っておいたら、食欲がなくなり、気づいた時には好きな音楽が不協和音に聞こえ、車のブレーキを踏めなくなり、明るい部屋が暗く感じられる。
さすがに精神科を受診すると、「うつ病」と診断された。薬を飲み始めたが、その後も現在に到るまで、この病とも付き合うことになった。
56歳で母が肺がんに そして、再発
2016年2月頃、今度は母の咳が止まらなくなった。
受診すると、ステージ2の肺がんだった。
「母は酒もたばこもやらないのですが、今度は肺に出たのかと思いました。FAPとの関連はわからないと先生に言われています。ただ、死後の解剖で結局、胃にもがんができていたことがわかりました」
肺の左下葉を切除する手術を受け、手術後に抗がん剤治療も行った。今度もまた母は回復するーー。そう信じていた。
ところが、経過観察をしていた2016年11月、CT検査で両側の肺に再発が見つかった。仕事を辞めて、母の看病に専念した。
再び通院で抗がん剤治療をしたが、効果が見られない。2017年12月25日、自宅でほとんど起き上がることができなくなった。訪問看護師から「今までと様子が違ってしんどそうじゃけえ、すぐ入院した方がいい」と勧められ、救急車を呼んだ。
一人で主治医に呼ばれた山崎さんは、「肺の80%が真っ白です。もしかしたら、今日、急変するかもしれないし、いつ亡くなってもおかしくない。覚悟しておいてください」と告げられた。不思議なぐらい現実感を感じられなかった。
「何も思わなかったんです。きつい抗がん剤を何回も繰り返してきたから、そろそろだめなのかなと思っていました。驚くほど冷静でした」
外泊で最後のお雑煮
2017年12月27日、病院から携帯電話に連絡が入った時は、「もしかして」と駆けつけた。そうではなく、自宅に帰ることを希望していた母を一時外泊させようという主治医からの提案だった。
「『今後は家で過ごす時間が重要になってくると思います』と言われました。モルヒネと酸素療法を始めて、家に帰らせました」
29日には本家のお墓参りをし、12月31日の大晦日には、母が自ら台所に立って年越しそばとお雑煮を作ってくれた。
「一緒に食べた最後の手料理でした。いつもどおりの味で美味しかった。母も食べることができました」
食べた後はずっと眠っているような状態で、31日のうちに再入院した。
ノートの遺書を見えるところに 「私、向こうに行くのが怖い」
その12月の外泊の時、母の部屋の目に付く場所に、見慣れないノートと封筒がおいてあるのに気づいた。自身が6歳の時に、最初の手術を受けた時に書いた遺書だった。
「今度こそ本当に死を覚悟したんだと思います。こんなことを書いていたのかと驚きました。でもその時は軽く目を通しただけだったと思います」
翌年、1月6日に最後の一時帰宅をした。一泊する予定だったが、「体がきつい」と言って、その日のうちに病院に戻った。
「一時帰宅の前日、珍しく『本当にいい子に育ってくれました』と照れ臭そうな顔で笑いながら言ったのを覚えています。とても体調は悪かったのだと思いますが、それでも僕はまだ死ぬとは思っていなかったんです」
しかし、母はこれが最期になると気づいていたようだ。
「まーさん手を貸して」
そんな風に言って息子の手をぎゅっと握りこう言った。
「私、向こうに行くのが怖い。死ぬのが怖い」
返す言葉がない。「困ったなあ」と言いながら手を握りかえすしかできなかった。
一時外泊から再び入院した母はそれからずっとうとうとするような時を過ごした。母が逝って一人になってしまうのが怖く、山崎さんが「困ったな。困ったな」とつぶやくと、今度は「なるようにしかならん」と母から励まされた。
亡くなる日の朝、「まーさん、私いますごくしんどい。しんどいというのをただそれだけわかってほしい」と弱音を吐いた。手を握って頷くだけしかできない。それが最後の会話になった。
1月29日の朝8時ごろ、朝食を食べに出て戻ると、意識がなくなっており、下顎をあげるような呼吸が始まっていた。亡くなる直前の人にみられる下顎呼吸だ。
ずっと手を握り、「ありがとう」と耳元で何度もささやいた。午後1時11分、一人きりで、たった一人の家族を見送った。
(続く)