柳田国男が朝ごはんにタピオカを食べていたーー。
そんなツイートが話題を呼んでいる。拡散しているのは、柳田の「民間伝承論」に書かれた以下のような一節だ。
「たとへば私の家の朝飯には、折としてタピオカを食ふことがある」
そもそもこの本は、昭和初期に「民間伝承の会」で柳田が発表した内容を口述筆記したもので、歴史や民俗学へのアプローチの仕方やさまざまな考察を紹介している。
「タピオカ」への言及があるのは、「我々の方法」という節だ。
日本における「民俗学の祖」である柳田は、各地の日常の事象や資料を広くから集めて比較し、生活文化の歴史変遷を明らかにしていくという「重出立証法」(比較研究法)を示している。
これが、文献ベースの「歴史学」とは異なる「民俗学」のアプローチだ。
柳田はこの節で、「現在生活の横断面の事象は(…)そのまま縦の歴史の資料を横に並べたのと同じに見ることが出来る」と指摘。「自分はこの横断面の資料によっても立派に歴史は書けるものだと信じている」と、自信を見せている。
さらに、「実地に観察し、採集した資料こそ最も尊ぶべきもの」「書物はこれに比べると小さな傍證にしか役立たぬものである」などとして、民俗学におけるフィールドワークの大切さを訴えている。
そんな中で「たとへば私の家の朝飯には、折としてタピオカを食ふことがある」はどこに出てくるのか。
手厳しい批判で……?
文中、柳田は「たった一回の事実を見ただけで、それが何等かの過去を示すように説く者がある」ことへの警鐘を鳴らしている。
「学問の基礎はそんな心もとないものの上には置けない」とまで、手厳しい。
自身がたまにタピオカを朝食に食べているとき、偶然居合わせた学者がそれを「日本人の朝食」として報告したらどうなるのかーー?
柳田はそんな疑問を以下のように投げかけることで、「重出立証法」の大切さを説いているのだ。
「日本人の食物は爪哇(*ジャワ)産の草の根の葛を煮たいもで、半透明のものだと報告したならばどうであろう」
「それを敢えてしないのは言わず語らずに、すでに他の多くの朝飯を知っているからである」
「ハイカラ」だったタピオカ
とはいえ、この本が出版されたのは1934(昭和9)年。戦前にタピオカがあった、ということに驚いた人も少なくないだろう。
実はタピオカは、明治時代からハイカラな「高級食材」として楽しまれていた経緯がある。
「日本におけるタピオカ」(長友麻希子、同志社女子大学生活科学、2003年)によると、スープに入れたり、プリンやゼリーなどのデザートとして用いられたりしていたという。
また、いま日本でブームとなっている丸い粒状のタピオカは、正式名称を「タピオカパール」という。
1925(大正14)年の「タピオカに就て」(井岡大輔、釀造學雜誌)という論文では、このタピオカパールに加え、タピオカ製粉やタピオカフレークを三井物産などがシンガポールやジャワ島(現・インドネシア)から輸入していたことが記されている。
(文中、旧仮名遣いを一部現代仮名遣いに修正しました)