【熊本地震】「記者はあっち行って」被災者と取材者のはざまで感じたこと

    「マスゴミと言われるのは辛かった」

    ときには記者も、被災者になる。

    新聞記者として熊本地震を経験した自分が、身を持って感じたことだ。2ヶ月経っても、傷はなかなか癒えるものではない。

    「伝える責任も感じているけれど、もう疲れました」。地元・熊本のとある民放テレビ局で記者をしている20代の男性は、そうつぶやく。

    自宅は半壊、数日だけの休み

    熊本市内にある彼の実家は、地震で半壊。家族も一時は避難所暮らしを強いられた。しかし、この2ヶ月、休めたのは数日だけ。職場では体調を崩し、血尿を訴える同僚も多いという。

    「ストレスはどんどん溜まっていて、それを吐き出す場もなく。どっかで病んじゃうんだろうなという不安があります」

    幼い頃から見慣れた風景が「めちゃくちゃになってしまった」ことへのショックも大きい。「自分がどこか知らないところに来た感覚にもなっていました」

    余震も落ち着き、ようやく少しずつ、心の余裕が出てきた。彼はいまも、日々、ふるさとのために奔走している。

    被災者と取材者のはざまに

    私自身もそうだった。全国紙の記者として熊本市内に暮らしていた私は、被災者という立場でありながら、取材者として走り回っていた。

    自宅マンションは被災し、暮らせる状況ではなくなった。直後の数日間は食べ物だってままならず、シャワーやトイレにすら困る日々が続いた。

    一方、取材中には責任感ばかりが先走り、倒壊現場や避難所でペンとカメラを持っている自分への、もどかしさと虚しさに苛まれる。いわゆる「マスゴミ」への批判が聞こえてくれば、すべてが自分のせいのようにすら感じるときもあった。

    見慣れた景色が壊れしまったことへのショックはもとより、ストレスと不安は募るばかりだった。

    「人が死んどるんや」

    4月14日。BuzzFeedへの転職が決まり、退職届受理の報を受けたその晩のことだった。午後9時26分、会社で夜勤席に座っていた私を、大きな揺れが襲った。

    これは死者が出ている、そう直感できるほどの揺れだった。そのままカメラを片手に街に出る。繁華街の被害はさほどだったが、益城町の方で倒壊が相次つぎ火災も発生していると知り、車に飛び乗った。

    倒壊家屋を見つければ、ひたすらにシャッターを切り、フラッシュを炊く。救出作業を見つければ、その前でひとり佇み、様子を探る。何か動きがあれば、また、フラッシュを炊く。「危ないです、下がってください」。警察官に注意をされても、引き下がらない。

    4月とはいえ、夜は寒い。車に積んでいたヤッケを羽織り、夜中じゅうはひたすら、傷だらけになった益城町を歩いた。

    着の身着のままの3日間、こうした取材がほとんどだった。地震で家族を失った人に話を聞けば、「人が死んどるんや」と怒鳴られた。避難所でちいさな男の子に「もう新聞はやだ、あっちに行って」と、泣かれたことも、子どもを抱えたお母さんに、「同じ話ばっかり聞かれて、もう疲れました」と言われたこともある。

    インターネット上には「マスゴミ」という言葉が飛び交う。

    それでも。生後8ヶ月の赤ちゃんが倒壊家屋から救出された現場に居合わせたときは、涙が溢れた。

    「がんばりましょう」

    地震後、2日間は車での寝泊まりが続いた。シガーソケットの携帯充電器、ウェットティッシュ、ヤッケ、小型ラジオ、懐中電灯、毛布になるもの、そしてヘルメット。車に積んでいてよかったものたちだ。

    3日間ほどは食べ物にも困ったが、前震直後に買ったキットカットに救われた。それに、時たま営業をしているコンビニとも巡り合った。ほとんどの商品が棚から落ちていた益城町のコンビニでは、客が商品を買うたびにスタッフが、「ありがとうございました」ではなく「がんばりましょう」と声をかけていた。

    そのコンビニで買った梅干しのおにぎりは、とても美味しかった。

    ようやく帰った自宅マンションは荒れ果てていた。断水で、シャワーも浴びられない。トイレをするために給水車から水を汲んだ。建物にもひびが入り、のちの応急危険度判定では、修復を必要とする「要注意判定」に。そこに暮らすことは、できなかった。

    よみがえる本震

    4月16日午前1時26分。本震がやってきた。益城町役場の駐車場。とてつもなく大きな破壊音があたりに響いた。あそこまで死を意識した瞬間は、いままでになかった。

    はいつくばらないと体が飛ばされるくらい激しく、地面が揺れ始めた。地響き以外の音は何も聞こえない。両横にあったトラックは大きく弾み、いまにも倒れそうなほど。地面をつかむように、抱きつくようにしながら収まるのをただ待った。

    数十秒続いた揺れがようやく収まり気がつけば、あたりは真っ暗になっている。どこからかガスが噴き出す音が聞こえ、助けを求め泣き叫ぶ声もあたりにこだましていた。役場庁舎からは砂埃が立ち上り、見たことのない地割れもできている。揺れの勢いで、パンクしたり、リアガラスが全壊したりした車もあった。

    この日ほど、はやく夜が明けて欲しいと思ったことはない。

    暗闇、地鳴り、そして緊急地震速報の音。

    地震から2ヶ月経った今も、ちいさな揺れや破裂音がするたび、動悸に襲われる。

    記者にも訪れる不眠やフラッシュバック

    こんなデータがある。東日本大震災の発生1年後、新聞記者やカメラマンを調査したところ、被災地域の地元紙など120人のうち22.4%に、全国紙や通信社の150人のうち14.7%に、PTSDのリスクがあったという。

    調査をしたのは、災害取材に携わるジャーナリストの心の傷やケアを研究している「報道人ストレス研究会」。その原因は「惨事ストレス」にあると、同会の福岡欣治・川崎医療福祉大学は説明する。

    「特に地元の記者さんは、震災の前に普段から接していた人、建物や風景が大きく損なわれる中で取材をし、記事を書かないといけない。それは大きなストレスになっているはずです」

    惨事ストレスとは▽涙もろくなる▽現実感を失う▽フラッシュバック▽不眠▽無力感などの症状が中心で、PTSDに至るケースもある。被災した当事者だけではなく、救助に入った自衛隊や消防隊員、警察官に現れるものとして知られていた。

    「そういった現場では記者の方が、必ずしも求められているわけではない。それでいて、ジャーナリストとして情報を発信しないという使命感も強い。その間で間でしんどい思いをされているのではないでしょうか」

    「俺、被災者だし」

    「ネットでマスゴミはやりたい放題みたいに言われるのは、辛かった。俺、被災者だし、地元だし」。今も現場で取材を続ける男性記者はそう話す。

    熊本に3年間暮らした私だって、同じ気持ちを持っている。しかし、いまは東京に暮らしている身だ。「逃げたんじゃないか」「取材した人たちを裏切ったんじゃないか」。そんな風に、罪悪感を覚えることもある。

    この感情をどう昇華すれば良いのか、いまだにわからない。記者もまた、ひとりの弱い人間にすぎないのだ。