両足義足の彼女が、ハイヒールを 履こうとした理由

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両足義足の彼女が、ハイヒールを 履こうとした理由

みんなと「同じ」ようになるために、彼女は脚を切った。

「私、生まれつき両脚に障害があって、手は2本指なんですけれど、まだ義足になる前には脚がありまして......」

アーティスト、片山真理(31)。

自らがイラストを描いた義足を履き、縫い上げた人形などとともにセルフ・ポートレートを撮影してきた。

「写真界の芥川賞」とも言われる木村伊兵衛賞(2017年)にノミネートされただけではなく、海外からも買い手がつくほど、世界のアートシーンで注目される存在だ。

義足を履けば180cmを超える立ち姿からは想像もつかないが、彼女は小学3年生のころ、もともとあった2本の脚を、自らの決断で切っている。

みんなと同じになりたかったからだ。

異なる自分に「恐怖」を感じていた

脚の主要となる骨が生まれつき欠けていた。病名は「先天性脛骨欠損症」。脚は変形し、補装具がなければ歩くこともできなかった。

片山は幼いころから、明らかにみんなと異なる自分の姿に、恐怖すら感じていた。

「いちばん古い記憶だと、4歳くらいかな。鏡に映った自分が、想像していた体と違っていて、すごく鳥肌が立っちゃって。こんなに違うんだ、と実感したんです。それからこう、鏡で自分を直視するのは、大人になるまで怖くて。怖くてというか、直視できなくて」

脚を切断したのは、小学校3年生のころ。それまでは補装具で「普通」に歩く練習をしていたが、限界だったのかもしれない。

「いじめがなければ、切らなかったかもしれないですね」と、片山は言う。

「小学校のときはまだ脚があって、ブーツみたいなものを履いて歩いていて、男の子から菌がうつるって言われて。どんと、押されたり、給食が配られないとか、上履きがない、椅子がない、机がないとか。色々、そういうことがありましたね」

いじめの理由は、見た目が「違う」自分自身にあると思っていた。みんなと「同じ」ようになるために、彼女は両脚を切ったのだ。

「みんなと同じ脚が得られるって説明を医師から受けて、みんなと同じ靴が履けると聞いて。そしたら、もしかしたら受け入れられるんじゃないかって、少し希望があって......」

これでみんなと同じになれる――わけではなかった。義足を手に入れ、みんなと同じ靴で歩き、ジーンズも穿けるようになった。しかし、いじめはなくならなかった。

「脚を切っても、同じところには立てなかったんです」

脚じゃない、歩き方が違うんだ。当時の片山はそうも感じた。ひたすら、道行く人たちを眺め、普通の歩き方をまねる。

それでも、みんなに受け入れてもらうことはできなかった。学校に行けば、いじめられる。不登校になった彼女は居場所を見つけた。「インターネット」だ。

インターネットの海に飛び込んで見えたもの

「ネット上に友達を求めたんですよ。共通の趣味を持っている人を見つけるために、インターネットの海に飛び込んだんです」

いまから15年ほど前。ちょうど、SNSの走りである「Myspace」が広がっていた時代だった。イギリスのゴシックアーティストからアメリカのバンドマンまで、さまざまな「表現者」たちが、そこにはいた。

「イラストや写真を撮っている人と知り合って、中学英語で拙いやりとりをして、海外バンドのCDジャケットとか、Tシャツのデザインとかをやっていましたね。表現することへの理解者と、一緒につくる人たちと知り合えて。仲間がいるっていうのは本当に心強かった」

マンガを描き、裁縫をし、何かをつくる。つくらないと、いられなかった。そんな自分に、「役に立たないものをつくっていて、いいんだろうか」と罪悪感を覚えていた。

でも、MySpaceにいる「みんな」は、何かをつくることを楽しんでいた。国も違う、年齢も違う、直接会うこともない。はじめて自分を肯定し、求めてくれる仲間だった。

「こんなに世の中には自由につくることに素直になっている人がいるんだと思うと、認められたような気がして。すごく安心した気持ちになりましたね」

Myspaceでは、こんな誘いもきた。


「モデルをやってくれませんか」

東京のファッションの専門学生からの連絡だった。卒業制作展でモデルをやってくれないか、とのオファーだ。

最初は戸惑いも隠せなかったが、「私を特別視せずにほかのモデルと同じように扱ってくれた」(*1)ことが、彼女をステージの上にあげた。それは、大きな転機にもなる。

「16歳のころ。義足に絵を描いて、履いて、出たんですよ。しっかり地に立った脚というイメージと、脚が草のように根を張るというイメージであざみの花を描いたんです」

「義足ってコロコロ変えられず、描いちゃったら消えないので、そのまま高校に通っていたんですよ。それを見た先生が『これはなに』と話しかけてくれて。美術の公募展があるから、義足についてテキストを書いて出してみない、と誘ってくれたんです」

この公募展「群馬青年ビエンナーレ」で、片山は奨励賞に輝いた。

そして、ハイヒールを履くために

東京の美術大学院に進学した片山は、こんな経験をした。

「制作費と学費を稼ぐためにライブバーという名のキャバクラで働いていたんですが、歌を歌ってたら、『ハイヒールを履かない女は女じゃない』といって、酒をかけられたんです」

「お店では、手のことも脚のこともあえて言わずに入ってお仕事していて、誰も気が付かなかったんですけれど。フラットなバレエシューズを履いていたんですよ。そしたらお客さんが怒っちゃって。義足であることに、気づいたわけではなく」

そもそも片山は、ハイヒールを履いたことはなかった。義足では、履けるものではなかったからだ。

「ハイヒールにずっと憧れは持っていて。いつか履きたいとずっと思っていて。私の母はすごくおしゃれで、綺麗な人なんですね。ハイヒール履いて立っている姿は、憧れでしたね」

ファッションには力がある。武装する道具だ、と片山はいう。「みんなと同じ」装いができないからこそ、そのことをよく知っていた。

「どうして私はハイヒールを履く選択肢が持てないのだろう?」

片山は、「ハイヒールプロジェクト」を立ち上げた。義足の自分がハイヒールを履いた姿で、ステージに立つことがゴールだった。

実現したら、何かが変わる気がした。義足や靴の専門家などの協力を得ながら、海外から部品を取り寄せて「ハイヒール用の義足」をつくりあげた。

「私がハイヒールを履けてゴール」と感じていたが、製作過程で変化もあった。義足の人が、ファッションを楽しむことの難しさを知ったのだ。

医療器具として扱われているから「ファッション」の要素はなく、好きなデザインを選ぶこともできない。色や、柄や、ましてやハイヒールなんて。

「ハイヒールを履くと言うのはものすごく極端だと思うんですけれど、おしゃれをすることはすごく大きい、社会にでる勇気になる。口紅ひとつ付けておくだけでも気持ちが明るくなる、みたいな」

義足の人たちがみんな、同じになる必要なんてない。もっとそれぞれに、選択肢があってもいい。「いままで自分のことしか考えなかった」彼女が、「社会とのつながり」を意識するようになった瞬間だ。

「みんながみんなおしゃれするべきというわけではなく、履きたい人が履ける、選択することができる世の中になればいい。そういうことが普通になるようになったらいいな、と。そのために、ハイヒールプロジェクトをずっと続けていきたいな、と思っています」

いま、プロジェクトのゴールは「例えばハイヒールを履ける義足の部品が簡単にネットでポチッと買える時代が来る」ことにある、という。

だからこそ、彼女はより多くに目立つような長躯でハイヒールを履き、ステージに立つのだ。「プロジェクトについて」という文章には、こう記されている。

子供がお母さんのぶかぶかなハイヒールをひっかけて、歩く。
届かない、ずっと先にあったハイヒールを履いて。
手すりづたいの頼りない一歩から、夜の街にくり出すまで。
理想を抱く自由を、すべての人に。

彼女はそのとき「マネキン」になる

あるときはハイヒールを履いて。あるときは、自らがつくった「オブジェ」に囲まれて。セルフ・ポートレートを中心にした彼女の作品は、高校時代から数えて300を超えた。

昨年母になった片山は、作品づくりにおいて、「時代」を意図するようにもなったという。

「作品がどれくらい残っていくのか、娘の孫、ひ孫が見たときにどう思うんだろうとか、彼らが生きていく時代のために何が残せるかな、と考えるようになりましたね」

「やっぱり現代アーティストがやるべきことって、今を生きることなんだと思うんですよね。今を生きている私を写すというのが、いまの時代を移す鏡になっている気がして、手っ取り早いんです。自分を撮ることが」

いまでも鏡を見るのが「すごく怖い」という片山は、他人から写真を撮られることが好きではない。

でも、自宅でひとりだけで撮るセルフ・ポートレートでは、自分自身を平気でさらけ出し、鋭い視線をレンズに向ける。その瞬間は、誰でもない「マネキン」になれるのだ、という。

「オブジェがあって、マネキンの自分がいて。それを写真に撮っているという形なので、やればやるほどに自分がよくわからなくなっていますね」

かつて「みんなと同じ」を求めた片山はいま、マネキンとなって「いまの時代」の何を伝えようとしているのか。

「全体的に輪郭がぼやけているような時代だ、って思いますね。本当の自分が誰だかわからなくって、定まらない感じ。いろいろな顔を持っている人がたくさん増えていて、だから面白いし、ちょっと怖くて。私もそのひとりだし、みんなそうだと思います」

「これからの私は、もうちょっと繊細なガラスみたいになりたい。ガラスが割れると粉々になってしまいますけれど、そのぶん光を反射して、多面的にいろいろなものを照らせるようになる。そういう風に世の中を見れるようになりたいな、と思います」

「脚を、切ろうと思っているんですよ」

取材に合わせ、お気に入りのワンピースを着てきた、という。

インタビューが終わったあと、一歩一歩を確かめるように歩きながら、片山はこうつぶやいた。

「背が高すぎるから、脚を短く切ろうと思ってるんですよね」

なんか滞ってるから、ラッキーナンバーの7cm分、足をぶった切りに来た。

後日、彼女は実際に「ラッキーナンバーの7cm分、脚をぶった切った」。15年ぶりだったそうだ。

他者と違うことを不安に思っていた彼女は、その違いが必然であることを知っている。自分自身すらも定まることはなく、人はみな、誰でもないマネキンなのだ、ということを。

多面的な世の中に、「同じ」なんてものはない。

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〈片山真理〉アーティスト

1987年7月7日埼玉県生まれ、群馬県育ち。東京藝術大学大学院修了。アートアワードトーキョー丸の内2012グランプリなどの受賞歴を持つ。群馬県立近代美術館での個展を開催したほか、国内外のグループ展に出品。6月30日から、東京・西麻布の「KANA KAWANISHI PHOTOGRAPHY」でグループ展「身体をめぐる政治性:からだを定義づけるもの」に参加している。

<編集後記>

平成元年に生まれた僕は、自分が生きたこの時代のことを一言で説明することができない。わからないからだ。‬

‪片山真理の言うように、この時代を形づくるみんなは誰でもない「マネキン」で、他者どころか自分をも見つけることができていない。この時代とは、そんなバラバラな個人の集合体だった、のだとも思う。‬

‪「平成の神々」というこのインタビュー特集は、集合体のひとつの断面だ。絶対的な答えを提示できるわけではないだろう。この時代を象徴する何かもなければ、誰かもいないのだから。‬

※1 MODE PRESSのインタビュー

※この記事は、Yahoo! JAPAN限定先行配信記事を再編集したものです。