太平洋戦争末期、ラジオのアナウンサーをしていた女性たちがいる。
男性の多くが出征し、空襲が激しくなるなかで、彼女たちは何を思い、マイクと向き合っていたのか。そして、どう戦争の時代を生き抜き、敗戦の日を迎えたのか。
1944年、19歳で日本放送協会(NHK)に入局したある女性の、半生を聞いた。
「私はね、ラジオと同い年なんですよ」
そうBuzzFeed Newsの取材に話し始めたのは、武井照子さん。1925(大正14)年生まれの94歳だ。
元アナウンサーだからこそ。その声はいまも淀みなく、一言一言が聞き取りやすい。ラジオっ子だったという武井さんは、自らの幼少期を語り始めた。
「小さい頃は、夕方にやっていた『コドモの新聞』という番組をかじりつくようにして聞いていたんです」
まだ、戦争も始まっていなかった幼少期。大正ロマンの残り香が漂う、自由な時代だった。「実にのびのびしていましたね。しすぎていたかも」
いまの埼玉県羽生市生まれ。実家は足袋屋で、店の女将をしていた祖母が東京に用事があるたび買ってきてくれたチョコレートが、楽しみだった。
5人きょうだいの真ん中の一人娘で、「女の子らしくはなかった」と笑う。雑誌も『少女倶楽部』よりも、兄や弟たちが買った「少年倶楽部」が好きだったという。
人気漫画『のらくろ』のテーマソングは、いまでも歌える。明治時代の軍歌の替え歌で、作品とともに流行していた。
♪黒いからだに大きな目。陽気に元気に生き生きと。『少年倶楽部』ののらくろは、いつもみんなを笑わせる。いくさに出ればその度に、働きぶりもめざましく。どんどん増える首の星。すえは大佐か元帥かーー。
「なんで覚えているんだろう。みんなで声合わせて歌ってたからかな」。歌い終えると、武井さんはまた笑った。
大好きだった夏休み
毎年、夏はひときわ楽しみな季節だった。
お祭りが、その始まりの合図だ。町内ごとの神輿はキラキラと飾り付けられ、揃いの浴衣を着た若人たちが引っ張る様子は、とにかく綺麗だった。
夜店に並ぶのは金魚、水ヨーヨー、針金細工、カルメ焼き……。子ども心をくすぐるものばかりだった。
「でも、お好み焼きだけは絶対ダメと母に言われたんです。ちょうど疫痢が流行った時だったから……。疫痢になると避病院(隔離病棟)に入れられて、誰も看てくれないまま痩せて死ぬんだと聞いて、怖くって食べられませんでした」
夏にはもうひとつ、楽しみがあった。茨城の大洗にあった別荘だ。
「毎年夏祭りが終わると、東武電車と汽車、おんぼろバスを乗り継いで行くんです。目の前が海で、朝起きてちょっと顔を洗ったら突っ走る。ひと月そんなところにずっといるんですから、本当に楽しかったですね」
なかでも、別荘に集まっていた親戚の大学生たちと過ごす日々が忘れられない、という。
一緒に映写機でアメリカの喜劇映画を見たり、チャイコフスキーのレコードを流したり。流行のダンスを教えてもらったり、ボートで海に繰り出したりーー。
夜は蚊帳を吊って、怖い話を聞かせてもらった。1ヶ月間海ぎわで過ごすから、新学期は真っ黒に焼けて登校していたという。
「非国民」と呼ばれて
熊谷の女学校に入ってからは、時たま東武電車で東京に出て、映画や芝居を見にいくこともあった。
お気に入りだったのは、ハリウッド女優のディアナ・ダービンだ。その歌を一生懸命覚えながら、「英語ってとっても綺麗だなって。将来は英文科に行こうと思ったんです」
そんな「キラキラ」としていた武井さんの少女時代にも、戦争の足音はだんだんと近づいていた。4年生の夏休み、大洗から学校に呼び出されたのだ。
「学校に戻ると、教室で学年主任の先生から『この非常時に、海水浴にいっているとは何事だ。非国民だ』と言われたんです。その言葉がとっても、こたえちゃって。どうして、そこまで言われなきゃいけないのかって……」
そのまま東京の実践女子専門学校(いまの実践女子学園)に進学。英語を学びたい、という気持ちはもはや諦めざるを得なかった。
ちょうど時代は太平洋戦争が開戦する直前で、英語が「敵性語」とみなされる風潮が増していたからだ。
「選んだのは国文科。ほんとうは英語をやりたかったけれど、排斥が厳しくなってきていたし、行きませんでした」
父親が反対したアナウンサー
戦況は、年を経るごとに悪化していった。
もはやハリウッド映画を楽しむことはできなくなった。食べ物や衣服は配給、切符制に。学生たちは工場などで勤労奉仕をさせられるようになった。
「空気は急ではなく、徐々に徐々に変わっていく感じでしたよ。贅沢は敵だ、とか。パーマネントはよしましょうとか、立て看板がかかるようになって。そういうのにだんだん慣らされていく。そういうことって、あるじゃないですか」
そんな状況でも笑顔は忘れなかったと、武井さんはいう。当時、勤労奉仕先の工場で写した記念写真では、みんな明るい笑顔を見せている。
「戦時中にみんなニコニコしているというのはおかしいかもしれませんけれど、女の子ですからね。普段はニコニコしていますよ。一日中辛い顔をしていたことなんて、ないですから」
しかし、大きな力には抗いようがなかった。戦争の影響で、本来は1945年3月に卒業するはずだった武井さんたちは、半年の繰り上げ卒業を選択させられた。
「教師になりたかったけれど、そうできない状況で。ちょうど放送員の募集が出ていたので、アナウンサーになったら私でも役に立つかなと思ったんです。父親はこんなに危ない時に東京にいるなんて、と反対していました」
女は男の「代わり」だった
「お国のために何かできることがあるなら」という気持ちから、武井さんはアナウンサーの道を選ぶことにした。
「入ってから最初にあったのは、アナウンサー学校での研修でした。本当は3ヶ月のはずなのだけれど、私たちは1ヶ月半しかなかったんですよ」
当時、日本放送協会の本部が置かれていた東京放送会館は、内幸町にあった。武井さんは兄や叔父と住んでいた目黒の家から、省線(いまのJR)を使って新橋まで通勤をしていたという。
ビルには防空のために迷彩が施してあり、縞模様みたいになっていたことを覚えている。食糧事情は逼迫していたが、局内の食堂は開いていた。
「食堂にあったのは、うどんの乾麺。私たちは『ちぎれうどん』って呼んでいたんです。長いんじゃない、捨てちゃうような折れたやつだから。味とかはあんまり覚えてないですけれど、それでも食べるものがあるだけ、マシですよね」
東京で採用された同期の女性アナウンサーは13人。ひとつ上の代までは、女性が一人いるかいないかだったが、若い男性の多くが徴兵されていた時代だ。
「戦争中はね、女性は男の代わりだったの」と武井さんはいう。それでも、ニュースや空襲警報を任されたのは男性アナウンサーだった。
「いわゆる、大本営発表とかニュースはやらされなかった。女の人がやると、堂々と雄大にできないから。きっと、軍からの指示でしょうね」
戦地に向けて届けたニュース
当時のラジオは、すべてが戦争一色だったわけではない。
音楽や物語、ドラマなどの「慰安番組」も多く放送されていた。武井さんはそうした番組とともに、海外向けの短波放送を担当していたという。
「短波放送は夜中にもやらなきゃいけないので、交代制で。南米向けとか、戦地向けとか、いろいろなものがあったんです。東京の新聞に書いてあるニュースを読んだりしていました。政治的ではなく、家庭的なニュースばかりでしたね」
真夜中にひとり、スタジオから地球の反対側に向けて、語りかけるーー。「本当に伝わっているのかな」と思っていたという。
「あとは、ドラマや子ども番組。この頃は生放送でドラマもやってましたから、そのタイトルを読むことも。子ども向けのお話番組は『爆弾三勇士』とか戦争のものばかり。児童劇団もありましたが、子どもが疎開で少なくて、集めるのが大変だったそうですよ」
制服があったわけではなく、もんぺ姿で働いていた。おしゃれ盛りの19歳だった武井さんは、どう感じていたのか。
「みんな好きで着ていたわけじゃない。でも、派手な格好はできませんでしたから、着物を仕立て直してブラウスにするとか、そういう工夫はしましたね。あと、男の人はほとんど国民服でしょう、男性アナウンサーが『なんだこれ、みっともねえや』と言っていました」
空襲が激しくなっても
研修を終えたころ、東京が初めて本格的な空襲に襲われた。1944年11月24日、80機のB29が都内各所を爆撃したのだ。
「局内には小さなアナウンスボックスがあって、そこで和田さんが初めての空襲警報をやったんです。窓から顔だけ見えたんですが、こっちはどうなるかと思って、本当、胸が痛くなるほどの気持ちで見ていたんですよね」
和田さんとは、のちに玉音放送を担当することになる、和田信賢アナウンサーだ。
「そうすると、とても穏やかな声で『空襲警報発令、空襲警報発令』と……。落ち着いて、と呼びかけるような放送で、本当にホッとしたんです。和田さんって、すごい人だなって感じましたね」
この日を皮切りに、東京への空襲は激しさを増していく。当初は局内から警報を報じていたが、そのうち、アナウンサーが軍の司令部に常駐するようになったという。
武井さん自身も、1945年5月23日の空襲で目黒の家を焼け出された。警報を聞いて慌ててリュックに詰め込んだのは、配給の米と兄の大切にしていた本。防火水槽の水をかぶり、目黒川沿いに逃げ隠れた。
「朝になって戻ると、家はなくなっていた。仕方ないから、局に行くことにしたんです。省線も動いていないから、歩いてね。そしたら『おお、お前も焼けてきたか』と言われて、迎えられて。今日はあっちの家、明日はこっちの家がやられる、そんな時代でしたからね」
家族には無事を連絡することができなかったが、放送を通じて武井さんの声は届いていたと、あとになってから知った。
「美しかったB29」そして空襲
しかし、災難は続く。2日後の5月25日、今度は放送会館のそばが空襲にあったのだ。
「宿泊所になっている病院のベッドにいたんですが、窓から見たらあっちこっち全部メラメラと燃えていて。それで、同僚たちと一緒に消火活動をしたんです。下火になってから部屋に戻って、お互いの顔見たら、煤で真っ黒けになっているのね。笑っちゃって」
翌朝、地方各局と本部をつないで状況を報告する「ライン送り」で「東京はひどい空襲でしたけれども、放送会館は無事でした」と伝えられた。「私たちが会館を守ったんだ」という誇らしさは、いまも胸に残っているという。
そんな武井さんの手元には、当時の罹災証明書と給料明細がある。「戦時手当」「銃後後援会費」という文字が、当時の特異性を浮かび上がらせる。
過酷な状況のなかで、死を意識したことはあったのか。
「ないですね。とにかく、綺麗なんですよ。病院の建物には蔦の葉が絡まっていて、チラチラ燃えていて、道路の真ん中には紙くずの燃えかすが川みたいに流れる。恐怖を感じるのではなくて、それを超えて、ただただ綺麗なんです」
「現実だといっても、ものすごい空気の中にいるからね。たとえばB29が空を飛ぶでしょ。ジュラルミンの物体が浮かんでいるのが見えるわけですよ。サーチライトに照らされると、それが光るわけね。やっぱり、綺麗だって思っていましたね」
8月14日、敗戦を知った
1945年8月14日のことだ。
「女子だけここにきなさい」。女性職員たちが、アナウンス室に集められた。呼びかけたのは、浅沼博アナウンサー室長だった。
浅沼室長は数人を前にして、こう語りかけた。「日本は、負けました」と。
「とっても静かにおっしゃいましたね。普段からお茶目で面白い、いつもふざけていた方だから。負けたよ、と言われても。どう考えていいかわからないじゃないですか」
さらに、こうも言ったという。
「こういうときには、必ず反乱軍が起きる。その時に君たちがピストルを突きつけられたら、君たちは自分の身を守りなさい。読めと言われたら、読んでいいんだよ」
目黒を焼け出されて以降、羽生の実家から通勤をしていた武井さんは、家に帰ると父親に日本の敗戦を伝えた。父親からは、「そうか」という一言だけが、返ってきた。
「父はわかっていたのかもしれませんね。私たちは負けるなんてこと、考えないようにされていたけれど」
誰も、何も言わなかった
翌日、8月15日は、太陽がじんじんと照りつけるような夏の日だった。
出社はせず、実家でラジオに耳をすませた。セミの鳴き声だけが鳴り響くなか、空襲警報で聞き慣れた「和田さん」の穏やかな声が、聞こえた。玉音放送だった。
「ラジオの前に集まって聞いていた人は、誰も何も言いませんでしたね。何も」
すでにその事実を知っていた武井さんは、粛々とその現実を受け止めるしかなかった。
なぜ敗戦という大きな事実を、女性たちに伝えたのかーー。後になって浅沼室長に聞くと、こんな言葉が帰ってきたという。
「君たちを、助けたかったからだよ」
浅沼室長が言っていたように、放送会館には8月15日未明に反乱軍によって包囲された。反乱軍側は玉音放送の阻止と声明の放送を要求したが、職員の機転で最悪の事態は避けられた。
あの時代とは、なんだったのか
戦後、GHQの指導下のもとでアナウンサーを続け、1982年までNHKで働き続けた武井さん。
いま「あの時代」を振り返り、何を思うのか。聞くと、武井さんはさっぱりとした口調で、こう語った。
「これも巡り合わせだと思います。戦争があったから、一年繰り上げ卒業になって、先生ではなく、アナウンサーになったのだから」
「私たちはとにかく、空襲が頻発するなかで夢中になって仕事をしていた。自分がやれることをやっていただけ。国のために、必死で働いていただけですよね」
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