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沖縄と内地との間にある「境界線」 私たちの責任とは

内地との間にある、境界線や壁。それをつくったのは、誰なのか。

あなたは沖縄を知っていますか、と聞かれたら、なんて答えるだろうか。何を語るだろうか。

「社会学や現代思想では、境界線を飛び越えたり、撹乱することが、ここ何十年も流行ってます。でも、あえて内地と沖縄の境界線を引き直したいと思っているんです」

BuzzFeed Newsの取材にこう語るのは、この5月、著書『はじめての沖縄』(新曜社)を出した社会学者の岸政彦さん(立命館大大学院教授)だ。

20年以上にわたり、沖縄をフィールドに研究を続けてきた。

「研究をしていると、必ず沖縄との関係が問われる。直接言われるわけではなくとも、お前は誰なんだ、何しにきたんだと」

「沖縄と内地の間には壁がある。境界線もある。だからこそ、内地の人間が研究する意味は何か、とひとつずつ掘り下げて考えるようになりました」

沖縄には「沖縄以外の都道府県のひと」を意味する「ナイチャー」と、沖縄のひとを意味する「ウチナンチュ」という言葉がある。こういう言い方は、他の地域にはほとんどない。

岸さんは、「はじめての沖縄」でその点についてこう説明している。

ウチナンチュとナイチャーという区別は、理由があり、根拠があり、必然性がある。なぜかというと、それは、沖縄の人々が内地を区別しているのではなく、沖縄という地域が、日本という国の中で、区別されているからである。あるいは、「差別」と言ってもよい。

「好き」という差別とは

岸さんは社会学者を目指していた24〜25歳のころ、観光で沖縄を訪れた。

「大学院を落ちて居場所がなくて、日雇い労働などをしながら、たまたま観光で出会った沖縄にハマっていったんですよ」

そこから一気にのめり込み、結果として沖縄をフィールドとする学者になった。当時の自分自身のことを、その熱の入れ方から「沖縄病」だったと振り返る。

「沖縄に対する差別というと、構造的差別がある、基地があること自体が差別なんだ、という言い方を僕らはしている」

「それはそうなんだけれども、さらにもうひとつ、独特の非対称的な関係性があるということを、沖縄の研究をしている初期から考えていました。好きという差別、愛するという差別があるんだろうなと」

「好きという差別」とは何か。

たとえば内地の人間が、沖縄の「人と人の共同体的な優しさやつながり」が好きだと言ったとしよう。

「それは別に沖縄じゃなくても、産業化が遅れているところで必ずある。世界中の、相対的に貧しい地域にあるんです。つまり対象を好きだという理由が、貧しさに関連しているのかもしれない」

沖縄のことを「好き」であるという以上、非対称性が生まれる。しかもそれは、沖縄が歴史的に抱えてきたものの延長に生まれた「欲望」でしかないかもしれない。

「たとえば、自然が綺麗だったら。それも開発されていない、というだけなのかもしれない。あるいは、とてもきれいなビーチがあったとして、それは公共事業でつくられた人工ビーチだったりすることもある。つまり、公共事業だけでしか飯を食えない人がいる、ということの結果かもしれない」

「独自の文化がある。かっこいいアメリカ風の文化もある。これは、日米両国に翻弄されたような、踏みにじられたような違う歴史を歩んできたからかもしれない。もともと別の国だったということもあるかもしれない」

沖縄を「勝手に語る」人たち

岸さんは、本の中で「私たち」という言葉を使う。

沖縄と内地の非対称的な関係性において、沖縄を好きになる側、沖縄に欲望をぶつける側、差別する側。それはナイチャーである「私たち」なのだ。

そして、「私たち」にはこうした関係性を生み出してきた「責任」があるという。

「僕らはナイチャーを降りることができない。非対称性を生み出していることに対する責任があるんです。その責任は、どれだけ貧困や基地問題に『良心的』であっても逃れられないのではないか、むしろ『良心的』であればあるほど、と思います」

それでは、「沖縄的なもの」について語ることは、不可能なのか。

「こういう、『沖縄に独特のもの』についての話をするとすぐに、ウチナンチュの文化的DNAが、みたいに本質論で語ろうとする人もいる。でも逆に、その沖縄はコロニアルな欲望が生み出した虚構のイメージだ、ナイチャーが作り出した表象だ、と言っちゃう人もいる」

「僕は、どっちも嫌でした。たとえば本土からUターンしたひとの語りや、沖縄戦を体験した方の語りを聞いていると、ああこれは沖縄でしか聞かれない語りだな、沖縄のひとしか経験できない人生だな、と思うことがたくさんある。そういう意味での『沖縄的なもの』は、確実にある」

沖縄を勝手に語る人たちは、その立場に関わらず多い。

「多様性を尊重するんだけど、その多様性に甘える人もいる。沖縄も一枚岩じゃない、沖縄も基地で潤っているという人がいる。それは事実としてそうなんだけど、そう語るときの『不遜さ』が気になるんです」

「沖縄の内なるねじれや分断や多様性について語ることと、内地の側の責任を問うこととは、同時にされなければならない。分断や多様さに甘えて、内地の人間が沖縄を好き勝手いうという語りについても、考えたいと思います」

安易に語らずに、考えること

だからこそ岸さんは、あえて「私たち」と呼ぶ。長い歴史をかけて、いろいろな語りとともに境界線をつくってきた「私たち」を一括りにすることで、考え直そうとしている。

私(記者)が「では、どうすれば良いのでしょう」と思わず尋ねると、岸さんはこう言った。

「どうすればいいのという言葉も含めて考えよう、と。答えを他者に求めるな、ということです」

「構造的な問題なので、具体的に何かすればいいというわけではないんです。いますぐ立ち上がるだけではなく、考えましょうということ。考えても無駄なんじゃないか、ということも含めて、考えたい」

岸さんは、本の冒頭にこう書いている。

ここではただ、はじめて沖縄に出会ったときにさかのぼって、沖縄について、個人的な体験から個人的に考えたことを書いてみたいのである。

それぞれが、それぞれの経験をもとに安易に語らずに、考えぬく。それこそが、岸さんのいう「新しい沖縄の語り方」を見つける作業なのかもしれない。

非対称性と、境界線

岸さんはいま、沖縄戦の聞き取りを進めている。目標は100人だ。

「沖縄戦って、南部の激戦地での、残酷な経験のイメージがあるけれど、それだけじゃない。離島にいた人も、北部に避難していた人も、内地に疎開した人もいるんですよね」

「それも全部、沖縄の経験なんです。何かに偏らず、ひとつのパターンにとらわれず、いろいろなディティールを聞いていきたい。とくに、沖縄戦の『その後』の生活史を聞くことを心がけています」

「戦争をくぐり抜けて、生き残って、子どもができて、孫を育てて、いま目の前で話している人の“人生史”を聞きたいんです。あの戦争を、『たくさんの人びとが亡くなった』戦争としてだけではなく、『たくさんの人びとが生き残った』戦争としても描きたい。そして、その生き残った方がたが、戦後の沖縄社会を作ってきたんです」

岸さんは社会学者として、多くの語りを積み重ねた研究を通じて、沖縄そのもの経験を、戦後史を、浮かび上がらせようとしている。

そうして「私たち」と沖縄の非対称性と、境界線について改めて考えようとしているのだ。

内地側の責任を問うために

2018年7月7日、「沖縄社会学会」が30年ぶりに復活した。

第1回目は琉球大学で開催され、80名近い研究者や学生や一般市民が参加した。来年度は沖縄国際大学での開催が決まっている。

1977年に結成されたものの長年にわたって休止していた学会は、「沖縄の社会や文化や歴史や経済について研究する人びとが一堂に会する場」をつくるべく、復活することになったという。

その告知文には、こうある。

自由闊達な学的議論を交わし、知識を蓄積し、沖縄の平和と発展に貢献するために、再度沖縄社会学会を出発させようと願っています。

文案を考えた岸さんには、強い思い入れがあるという。

「実証研究の交流と蓄積の場にするだけではなく、ちゃんと沖縄の平和や政治について、あるいは『非対称性』について考えたいという意味を込めたんです」

「沖縄にコミットする研究者は、地道に研究をやるしかない。そして、ひとつひとつの事実を調べて記録して、正しいことを積んだうえで、なおかつ、内地の側の責任を問わなければいけない。そこまでできて、初めて研究者なんですから」