樹木希林さんが「知らなかった自分を恥じました」 と語った、ハンセン病

    樹木さんは映画『あん』で、ハンセン病の元患者を演じた。

    9月15日に75歳で亡くなった、女優の樹木希林さん。

    5年前に全身のがんであることを告白。先月13日には左大腿骨を骨折し入院中だった。

    個性派女優として活躍した国民的スター、誰もが知る「おばあちゃん」ーー。そんな樹木さんは、ある”病”のことを知らなかった自分について「恥じました」とまで語ったことがある。

    何がそこまで、彼女の心を動かしたのか。

    樹木さんが演じた元患者

    ハンセン病ーー。日本には、たった20年前の1996年まで存在した「らい予防法」に基づき、この病にかかった患者たちを、無理やりに社会から隔離した歴史がある。

    多くは家族の元を引き離され、塀に囲まれた隔離施設に収容された。死ぬまでその中で暮らし続けないといけない運命を、国に決められた。子どもができたのに、病を理由に中絶させられる夫婦たちもいた。

    病気が治っても施設に収容され、偏見と戦いながらも「社会」で生きようとする女性を描いた映画が、河瀬直美監督の『あん』(2015年)だ。

    元患者を演じた樹木さんは、日本財団によるインタビューで、こう語っている。

    「この歳になるまで、こんなに過酷な、こんなに悲しい、寂しい、虚しい日々を送らざるを得なかった状況があるということを知らなかった自分を、この映画を通して恥じました」

    そもそも、ハンセン病とは何なのか

    日本は長年国策として、ハンセン病を患った人たちを全国各地の「療養所」に隔離してきた。後遺症で手足や顔が変形してしまうことに加え、「移る病気」という間違った認識が一般的だったからだ。

    戦後、ハンセン病は薬によって治る病気となった。それでも患者たちは、療養所の外で暮らすことも故郷に帰ることも、許されなかった。親戚に影響が及ばないよう、偽名(園名)を名乗らされた。

    「病が移るのを防ぐため」として子どもを作ることは許されず、堕胎や断種(パイプカット)を強いられた人たちも多い。たとえ病が治っていても、だ。

    国の「ハンセン病問題に関する検証会議」の最終報告書によると、1949年から96年までハンセン病を理由に不妊手術をされた男女は1551人。堕胎手術の数は、7696件に及ぶ。

    隔離政策を定めていた「らい予防法」は96年に廃止された。しかし、荼毘に付された入所者の遺骨を誰も取りに来ない、といったことは後を絶たない。骨になっても帰ることができない。ハンセン病差別がいまも、社会に根付いていることを示す悲しい証拠だ。

    もし、自分だったら……

    映画の公開に際し、「厳しい時代だったであろう過去を持ち、今は当たり前に生きている彼等から、“生きている”という人間のたくましさを感じます」とコメントしていた樹木さん。

    元患者の女性を演じるに前には、実際に療養所を訪れ、隔離された経験を持つ人たちと会ったという。

    樹木さんは『あん』の原作者・ドリアン助川さんとの対談(2016年、法務省主催)で、こんなことを語っている。

    「一番怖いのは、身近にいる人たちが密告するんですよね。そのことを知った時に、もし私がそういう立場にいて、無らい県運動を町中でやっているというときに、一番になりたくて、あそこのうちにいるよ、あそこのうちにいるよ、とやらなかったとは絶対に言えない」

    「無らい県運動」とは、1920年代に全国各地で展開されていた運動だ。「らい」と呼ばれていたハンセン病患者を各県が競って見つけだし、施設に強制収容する目的があった。

    「一番怖いのは、自分の中にある悪」

    こうした制度を支えたのは、患者を持つ家庭の周囲に暮らす人たちでもあった。

    「自分の中にそういうものがあるっていう風に、どうしても思えるんですよ。ああ、こういう時代があったと思いながら、もう本当にね。なんて言っていいかわからない。人というものの持つ、凄まじさっていうものを感じました」

    「そこの中で振り回された患者たちはもっともっと大変で、口には言い表せないと思います。けれども、このハンセン病だけではなく、今日に至るまで、世界にはたくさんの差別の問題がある」

    「一番怖いのは、身近にいる、すぐそばにいる、敵なんですよね。一番身近な、よく歴史を見ると、案外身近な、自分の中にある悪の部分というか、そのものを知る必要があるんじゃないかなと考えている次第です」

    樹木さんは映画の中に出てくる「世間は怖いよね。でも、一番怖いのは俺だ」という台詞を引き、こうも言った。

    「一番怖いのは自分だ、と。世間の何かを糾弾するときも、常に自分を疑って見る。これを私のこれからの、指針にしていこうと思いました」