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戦時中、少女たちが憧れた「女性だけの陸軍部隊」。元隊員が見た「戦争」とは

男性の多くが戦地に送られるなか、人員不足を補うためにつくられた、女性だけの陸軍部隊「女子通信隊」。太平洋戦争中、彼女たちはいったいどのような役目を担っていたのか。

戦時中、陸軍に女性だけの部隊があったことはあまり知られていない。

防空に携わる「女子通信隊」。女子たちの「憧れ」だったとも言われるその部隊では、どのような「戦争」が繰り広げられていたのだろうか。

16歳で入隊した元隊員の証言を聞いた。

「国を守っているという使命感、誇りがありましたね」

そうBuzzFeed Newsの取材に語るのは、陸軍東部軍女子通信隊に所属していた外間加津子さん(91)だ。

「女子通信隊」は男性の多くが戦地に送られるなか、人員不足を補うためにつくられた、女性だけの陸軍部隊だ。扱っていたのは軍事機密。それゆえ、記録はあまり残されていない。

その設立は1942年12月。空襲警報を流すため、各地から集まった敵機の情報を司令室に伝える役割を担っていた。東部軍では、ひとつ100人の小隊4つで構成されていたという。

イギリスの女子部隊をモデルにしたと言われている。カーキ色、将校と同じダブルボタンの制服は「贅沢は敵だ」の時代にあって、おしゃれ盛りの女子たちには憧れの存在だった。

「男の人はみんな人を殺しに行くのだけれども、私は人を守るんだから。それだけ良いことをやっているのだから、という喜びは大きかったですよ」

「給料もよかった。すべて父に渡していたんですが、『お前はえらいお前はえらい』と言ってくれてね。あの時代ですから、嬉しかったと思います。親孝行娘ですよね」

そんな外間さんは、それまで「愛国心なんてない」ふつうの女学生だった、という。戦争の気配が色濃くなる前は、いまと変わらぬ普通の青春を謳歌していた。

兵隊さんと文通も…

1927(昭和2)年生まれ。自らのことを「昭和っ子です」という。

当時は改元直後ということもあり、新しい時代への希望をうたう「昭和の子供」という曲が流行っていたそうだ。

♪昭和 昭和 昭和の子供よ 僕達は 大きなのぞみあかるい心 空々空なら日本晴れ 行かうよ 行かう 足なみそろへて

外間さんは、そんな「大正デモクラシー」の自由な雰囲気が残る東京で生まれ育った。

しかし、時代はだんだんと明るさを失っていく。太平洋戦争に向かうひとつの転機ともなった陸軍青年将校によるクーデター未遂、二・二六事件(1936年)のときには、小学校で「早く帰りなさい」と言われたことを覚えている。

麻布に移り住み、広尾の順心高等女学校(いまの広尾学園)に進学したころには、食料事情も逼迫しはじめていた。近所の食堂はおかゆしかなくなり、生活も徐々に厳しさを増した。それでも、楽しい日々には変わりはなかった。

スポーツが大の得意で、クラスでは人気者。バレーや陸上、テニス……さまざまな部活に声をかけられたという。休日には、映画や舞台を友達と一緒に観に行くこともあった。

学校のすぐ近くにある有栖川公園には、若い兵士たちがたむろしていたことを覚えている。

「かっこよくて素敵な兵隊さんがいてね。部隊を聞いて、慰問袋を何回か送ったことがありました。みんなで千人針をつくって。何度か手紙のやり取りもしたんですよ」

「それがばれても、父親は何も言いませんでした。兵隊さんだし、注意されたことがないですね。我々の時代ではね、アイドルではなく兵隊さんだったんですよ。みんな素敵に見えましたもんね」

「お国のために」と言われて

外間さんが青春時代を謳歌していた一方で、戦争はどんどんと日常を侵していく。4年生になった1943年春。教師から、こう言われた。

「授業はできません、あなた方はお国のために何かをやりなさい」

太平洋戦争がはじまってから、1年半ほどが経っていた。世の中は戦時一色。この年の6月には学生たちを戦時体制に組み込むための「学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議決定されるなど、すでに学生が勉強に専念できる時代ではなかったのだ。

「家にいるわけにいかない。国のためと言われているから何かやらないといけないですよね」

職を探し始めた外間さんの目に留まったのが、女子通信隊のポスターだった。「生け花や茶道も習える」という謳い文句があったと、記憶している。

「結婚前の花嫁修行をしようと入った人もいたんですよ」

女学校卒業程度の学力、20歳前後の独身者が条件だった。立場は軍属ではあったが、当時16歳だった外間さんは、迷わずに入隊を決意した。

「大好きな学校の仲間たちと別れるのはやっぱり嫌でした。でも、嬉しい気持ちもあった。かっこいいですからね。カーキ色の制服を着て帽子を斜めにかぶって。素敵でしょ、目立っていたと思いますよ」

竹橋付近にあった司令部には、電車で通っていた。コンクリート造りの頑丈な建物で、職場は地下にあったことを覚えている。

「門のところには人がいるから、敬礼して入りました。恥ずかしさもあったけれど、すごく気持ちよかったですね。それに、スポーツが好きだったから、軍隊式の敬礼や訓練などのキビキビした動きも自分に合っていたんです」

作戦室から聞こえた怒鳴り声

訓練を終えた外間さんたちに任された勤務は、各地の監視哨やレーダーで集められた敵機の情報を司令部に伝えることだった。

ヘッドホンを通じて入った情報をすぐ操作盤のスイッチに反映させると、司令部の地図に光りが点り、それを元に作戦や空襲警報の指令を決める仕組みだ。

「情報を耳で聞いて、口で復唱しながらスイッチを押すんです。敵機高度何千メートルなんというのを右手で入れて、左手で消していかないといけない。それが6時間。トイレにも行けませんでした。復唱するだけでクタクタですよ。間違えると作戦室から年中怒鳴る声が聞こえる。銚子の監視所は何をしているんだ、とかね」

ちょうど、本土への空襲が活発になりはじめる時期だった。勤務は毎日6時間、24時間4交代制だ。

外間さんの1日はこうだーー。朝9時に出勤して6時間の勤務を終えると、午後3時から6時間は待機する。その間に畳張りの部屋で仮眠をとったり、食事を食べたりし、夜9時からまた6時間の夜勤が待っている。そして、午前3時からまた6時間待機し。翌朝9時、明るいなかでようやく家路に着いた。

地方から勤めた人たちは寮生活で、「生け花やお茶」をする時間もあったようだが、実家から通う外間さんにそんな「花嫁修行」の余裕はなかった。

「警報がずっと鳴りっぱなしでしたから。私は夢中で勤務をしていたという感じですよ。家と職場の往復で、友達もできませんでした」

そして街は、焼け野原になった

待機していたときも、空襲があれば呼び出された。過酷な勤務のなか、夜食で出るあんパンが、いつも楽しみだったという。

「甘いものがなくて、食べられない時代だから。少し残して、翌日家族に持って帰りました。喜ばれましたよ。それに、地方から来た人は宿舎に入っていますから、実家からお米を送ってきたりしますよね。そういうのをわけてもらったりしていました」

戦況が悪化するにすれ、地方から働きに来ていた隊員たちは地元へと帰っていた。もはや東京は、安全に暮らすことのできる場所ではなくなっていたからだ。

「東京が危ないのに、娘を置いておけないといって親が引き取りに来るんです。そうしてやめる方が非常に多かった。私の第3小隊には約100名いましたが、年中入れ替わりでしたね」

1944年の後半になると、空襲はさらに苛烈さを増す。そのほとんどを、外間さんはじめじめとした空気の司令部の中で過ごした。

「東京が空襲のときも、勤務していたんですよ。だから、怖い思いはしていない。音も何も聞こえませんでした。ただ、勤務が終わって帰るときには、街が焼け野原になっていたんです。防空壕をのぞくと真っ黒な死体が横たわっていたました。真っ黒になりながら抱き合った親子の姿も、忘れることはできません」

空襲のあと、出勤しなかった同僚を探しに行け、と言われたことがある。生きているか、死んでいるかもわからない。彼女を見つけることは、できなかった。

「勝つわけはないと思っていた」

一度、遠くから空襲を眺めたことがある。「綺麗だった」と外間さんはいう。

「あの明るさ。落ちる姿の綺麗さ。夜なんか綺麗ですごいですよ。落ちてくる火花、飛行機の音。家族みんなで夜、外に出て見ているんですよ。だって寝られませんもの。家は明かりつけられないから真っ暗で、外の方が明るいくらい」

「なんとも言えない。怖さなんてないですね。逃げることもないですよね。防空壕なんてとんでもない。おっかなくて入れませんもの。だって扉は木でしょう。中に入ってそのまま死ぬの、いやですもの」

のちの空襲で麻布の家も焼け出された。しかし家族とともに、そのあとどう暮らしていたのか、まったく覚えていない。勤務に忙殺されていたからだ。

「いったいその時に何を着て、何を食べていたのか。あの焼ける暑いところを歩いて、靴下履いていたのかしら。靴下って買えたのかしら。下着は何をしているのかしら。歯を磨いたのかしら。歯ブラシって売ってたのかしら。覚えているのは司令室のことだけ。麻痺しているんです、記憶もぷつんと切れちゃって……」

大量の敵機が毎日のように襲いかかるなか、外間さんはその情報を司令部に伝え続けた。

殺気立った空気を肌で感じていたからこそ、「勝つわけはないと思っていました」という。

「口に出さないだけのことで。だって、100機も来ているんですよ。高度もわからない、最後のほうには、数すらわからないこともあったんですから」

「女性は男の格好をして逃げろ」

1945年8月15日、日本は戦争に負けた。その前夜まで、本土各地は空襲を受けていた。

いつものように通信隊に勤務していた外間さんは、玉音放送を聞いたあと、同僚たちとともに、すぐ近くの皇居・二重橋へと向かった。

「すぐ、宮城にいきました。集まっていたみんなが泣いて、泣いて。泣き声だけですよね。私たちも泣いて。嬉しさなのか、寂しさなのか。でも、ほっとした気持ちもありました」

司令部の兵隊たちにも動揺が走っていた。「女性は男の格好をして逃げろ」と言われ、制服のまま親戚の住む山梨県に疎開した。

「死ななかったことが、今日まで生きてこれたことが、不思議ですよね」

「最後の一兵」として

戦後は、中学校で教鞭を執った。隊員たちとの交流も続けていたが、いまではそのほとんどが亡くなってしまったという。

女子通信隊が所属していた「東部第1950部隊」の慰霊祭では、空襲や病に倒れた隊員たちを毎年弔ってきた。多い時で100人以上が参列していたが、いまでは外間さんひとりだけだ。

それでも、外間さんは毎年開かれていた慰霊をやめるつもりはない。女子通信隊の存在を伝えるため。あの時代に身を粉にして働いた女子隊員たちの思いを後世に残すためだ。

「最後の一兵 がんばれ」。仲間の隊員が亡くなる直前、年賀状に記していた言葉が、そんな外間さんの支えになっている。

「あと何年生きられるかわからないけれど、もう一人だけなんだから。最後までがんばらないとね」

そう語ると、「最後の一兵」は笑った。


8月25日(日曜日)午後1時から、横浜市緑区の「みどりアートパーク」で外間さんの講演が開かれる。資料代1000円、定員60名。問い合わせは幹事の須磨さん(090-2521-1996)まで。