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「日本は吹き溜まりの国」ガンダム生みの親・安彦良和と考える、“この国”のかたち

改元で新たな時代を迎えたいま、「天皇」と「この国」の成り立ちをどう捉えたら良いのか。そのヒントを安彦氏に聞いた。

『機動戦士ガンダム』の生みの親の一人である安彦良和氏は、40年前に「ガンダム」のキャラクターを作り上げた。近年では『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』で登場人物たちの過去、すなわち「歴史」を描いた。

71歳の今に至るまで、安彦氏は漫画家として現実の「歴史」とも向き合ってきた。日本古代史で着目したのが、最古の史書とされる『古事記』だ。戦前は天皇の神格化や「皇国史観」に利用され、戦後はその反省から公の場で扱われる機会は減った。

多くの謎を抱えながら、時にあやしい雰囲気をまとう古代史を、なぜ取り扱ったのか。安彦氏は「戦後日本は、古代史を“人間の歴史”として再認識することが必要だったが、それができなかった」と指摘する。

改元で新たな時代を迎えたいま、「天皇」と「この国」の成り立ちをどう捉えたら良いのか。そのヒントを安彦氏に聞いた。

きっかけは「内なる天皇制」への問題意識だった。

――安彦さんは、歴史をモチーフにした漫画をライフワークとしています。大国主命(オオクニヌシノミコト)を描いた『ナムジ』を皮切りに、初代・神武天皇、ヤマトタケルなどが登場する古代史を描いています。古代史への興味を抱くきっかけは何だったのでしょうか。

そもそも古代の歴史を描くきっかけになったのは、初めて描いた漫画『アリオン』でした。

これはギリシャ神話をネタにした漫画でした。その時に考えたのは、神話は神話でありながら、人間たちの歴史を含むものではないかということです。

神話を「神の物語」としてではなく、「人間の歴史」の一部として読み直すというのは、面白い試みかもしれない。そう思った原点が「アリオン」でした。

その後、ちょうどアニメの仕事を辞めるタイミングで『古事記』を漫画にしてみないかと編集者から声がかかったんです。

『古事記』を単に漫画にしてもつまらない。『アリオン』の時のように『古事記』を人間の歴史の目線で読み変えるという内容を目指しました。

――『古事記』は奈良時代(8世紀前半)に編纂された日本最古の歴史書とされていますが、その内容は建国神話など歴史的事実が認められていない事象を含みます。そこを描くことにためらいはありませんでしたか。

漫画として描くわけですから、ためらいはありませんでした。そこはあくまでサブカルですから。

でも、右翼からも左翼からも嫌われるだろうなと。右からは「いい加減なことを描きやがって」と怒られ、左からは「実証的ではない。論外だ」と馬鹿にされるだろうし、いいことないだろうなと思いました。

最近、サブカルチャーについて「もはやサブカルではない。メインカルチャーだ」という声もありますけど、それはちょっとまずいと思う。

あんまりヨイショされて、いい気にならないほうがいい。「あくまでサブ」「たかが漫画」という意識は持っておいたほうが良い。

国のお墨付きや補助金なんかもらったら、どんな恐ろしいことになるかわからない。文科省あたりから「これはいい漫画だ」「これは悪い」なんて言われたくないですもの。

漫画もアニメもそうですけど、権威化するとやっぱりよくないですよ。そこを忘れてはいけない。

――安彦さんは大学時代、学生運動に深く関わり、逮捕された経験もあります。あえて古代史にまつわる分野を描いたのはなぜですか。

学生時代から天皇制への問題意識はありました。やがて学生運動が下火になり、みんな敗北感で挫折していく時に「『内なる天皇制』に負けたんだ」という言い方が流行したんですね。

僕たちにとって天皇制は否定の対象でした。でも、否定したつもりが否定できていなかった。そもそも我々の運動なんて根無し草で、軽かったですからね。社会に根付いてないからしょうがない。失敗するべくして失敗したわけですよ。

大衆レベルで「天皇」というものが意識の底に沈んで、それに跳ね返されたとも言えるかもしれません。

この国には「天皇」というものが、ずっと根を張っている。それはどういうことなのかと、何となく心の中で考え続けていたんだと思います。

もともと日本という国の成り立ちは、神話と歴史の境界線が曖昧で、虚実混ざった部分があると思います。僕は、サブカルチャーの世界にいる人間として『古事記』を描いてみようと思った。

それと、『古事記』『日本書紀』を批判していた歴史学者の津田左右吉(1873〜1961)への疑問もありました。

戦後歴史学の「津田史観」への疑問

――津田は戦前、史料批判の観点から歴代天皇の実在性に疑問を呈しました。2代から9代までの天皇は実在せず、初代と10代を同一人物とする「欠史八代」説を唱え、不敬罪で起訴されました。

津田は『古事記』『日本書紀』のうち、神話の部分は後世につくられたものだと主張しました。ただ、これは皇室の存在理由を疑うことにつながるわけで、戦前は批判を受けました。

しかし、敗戦後に津田の意見は見直されます。戦後、歴史学は「実証できること」が大事とされ「津田史観」は学校で教わる日本史のベースになりました。

そういう意味で歴史の先生、特に古代史を教える先生は、みな津田の弟子だったと言えるでしょう。

そこには戦前の皇国史観や、国家神道に対する反発もありました。当の津田は、天皇に畏敬の念を持っていた人でしたけどね。

こうして、天皇制の成り立ちを『古事記』『日本書紀』の神話伝承から考えるという立場は学界で相手にされなくなります。

――となると、フィクションとはいえ、なぜ「津田史観」をあえて疑うような構成で古代史を描いたのでしょうか。

おっしゃるように、津田は「欠史八代」の天皇の実在を疑います。『古事記』『日本書紀』に記された古代の天皇は、みな寿命が異常に長い。神武天皇は127歳、または137歳まで生きたと書かれている。もちろん実在が疑われるわけです。

ただ、歴史と神話が入り混じった中で、津田のように「天皇は何代まではいなかった」「何代からは実際にいた」というように線を引く発想には違和感がありました。そう単純に割り切れるのかなと。

「天皇」と呼ばれる以前の権力者がいて、各地に豪族がいて、それが次第に国家レベルにまとまっていったとすれば、そこには権力の形成発展過程があったかもしれない。つまり、「神話から歴史へのグラデーション」です。

『古事記』『日本書紀』には、そういうヒントが隠されていると考えてみたほうが面白いと思ったんです。

「神話」と「歴史」のグラデーションを掘り下げた

――そのアイディアに至るきっかけになったのは。

アニメ「ヴィナス戦記」に携わっていた頃に、たまたま読んだ原田常治という人の本です。

歴史家でも何でもない小さな出版社のオーナーだったんですが、70歳を過ぎて老後の道楽として、奥さんと古いお寺や神社を巡った。その目的は『古事記』より前のことがわかる史料がないかを探すためでした。

そこで知ったことをもとにして、出版社の社長という立場を利用して『古代日本正史』という本をつくります。

原田さんはいろいろな神社や寺社の故事来歴を調べた結果、『古事記』の半分が嘘で『日本書紀』も3分の2が嘘だと主張します。

もちろん、原田さんの本は歴史学的にはいい加減な本で、いわゆる「トンデモ本」の類いです。学界では、当時も今も相手にされていません。

ただ、そのいい加減なところを差し引いて読めば非常に面白かった。これはこれで新しい視点だなと思ったんです。

――原田の『古代日本正史』は、安彦さんの古代史シリーズのネタ本になった。

はい。『ナムジ』からの一連の仕事は、この本をほとんど下敷きにしたものと言っていいでしょう。

原田さんは「古事記は半分が嘘、日本書紀は2/3が嘘」と主張しましたが、それは裏を返せば「半分は本当、3分の1は本当」ということになる。学者は誰も相手にしないけど、これはこれで意味深な内容だなと思ったんです。

『古事記』『日本書紀』を歴史的な素材として扱うことを、多くの学者さんは全否定します。「実証歴史学の素材とするには堪えない」とね。

それに比べたら「半分や1/3は本当かもしれない」というのは、画期的な視点に思えました。これを元にすれば、歴史と神話の境目のギリギリまで肉薄できるんじゃないか。

もちろん、僕は実証的な歴史学や考古学を軽視しているわけではありません。しかし、神話的な歴史といった古い言い伝えには、もともと物語を求めにくいんです。日本では特に限界があるんです。

古代史は「神話」ではなく「人の歴史」

――戦前に関して言えば、『古事記』『日本書紀』への史料的批判は認められず、いわゆる皇国史観というものが作り上げられ、利用された。

学校では、建国神話は歴史と選民思想を交えて教えられ、「日本は神国である」と人々に信じ込ませた。罪深いですよね。

『機動戦士ガンダム』の「ジオニズム」もそうですが、選民思想は古代からある構造です。自分たちが「神国」の選ばれた存在だと信じれば、そうでない人たちへの差別が生まれる。

では、神話を神話としてではなく、人間の歴史として読み直すとどうなるでしょうか。

『古事記』や『日本書紀』には、権力にまつわる醜い争いや暴行、謀略、裏切りなども書かれている。皇室にとって不都合な内容もあります。

例えば、神功皇后の三韓征伐にまつわる伝説です。神功皇后は仲哀天皇との間に応神天皇を生んだとされますが、仲哀天皇は急死しており、計算が合わない。

――「記紀」には、つじつまが合わないところがあると。

例えば、有名な「国譲り」の話もそうです。建国神話には2本のルーツがあります。皇祖神とされる天照大神の系譜(天津神)とされる日向族と、須佐之男命から大国主命の系譜(国津神)とされる出雲族の流れです。

しかし『古事記』も『日本書紀』も、官製の歴史書なのに日向神話と出雲神話がうまくつながらない。

天照大神の使者が大国主命に国を譲れと迫る。しかし、天孫が高天原から地上に降臨(天孫降臨)した地は出雲ではなく、日向(宮崎)の高千穂だった。

当時の学者や権力者が集まってまとめた割に、矛盾する点がある。裏返せば、それは『古事記』『日本書紀』が、部分的に真実を反映していたことを意味するのかもしれません。

どんな強大な権力であっても、どうしてもねじ曲げられない史実があったんだろうとも思えます。

出雲の流れ、日向の流れ、そして倭の成立。歴史の全体としては、その大前提だけは覆せなかったのかもしれない。同時に複数の国が繁栄していたのを、なんとか無理やりまとめたのかなと想像するわけです。

――「つながり」が怪しい部分があれば「万世一系」というのも…。

そもそも「万世一系」は幻想でしょう。「幻想」とはっきりと分かれば、それを盲信する必要もないと思えます。

戦前は、歴史と神話を同一視することで皇国史観や選民意識が生み出され、それが戦争に利用されました。

日本は、古代史を明確に「人間の歴史」として再認識することがどこの国よりも必要なはずだった。しかし、それができなかった。

このままだと、またも歴史が神話化され、過去の悪夢を繰り返す恐れがあると思います。

日本は、雑多な「吹き溜まり」

――では、安彦さんは「天皇」と「この国」の成り立ちをどう捉えますか。

「天皇」を歴史化することが「内なる天皇制」や「天皇制の呪縛」からの解放されるヒントになるのではないかと思います。

僕は、たとえ古代に皇統の断絶があったとしても、天皇の系譜に価値がなくなるとは考えません。神話の時代から国を統括していた一族が今もいるとされているというのは非常にユニークです。

だから、否定するんじゃなくて、むしろ人間的に読み変えて認めちゃえばいいと思うんですね。

――というと、具体的には。

今上天皇で126代とされていますが、過去に実在が確実視されている天皇だけで100代はゆうに超えています。それだけで充分すごい。

それに次ぐ長い系譜となると、天橋立にある古社・籠神社に伝わる社家(海部氏)の系図で、国宝になっています。現宮司で82代だそうです。

「天皇家」というのは長い系図を持つ古代王族の子孫で、あまりにその出自が古くまで辿れるから「国民統合の象徴」になってもらっている。それでいいんじゃないかなと。

だから「この家系すごいね」って尊敬すれば、それで充分だと思うんです。

――「ずっと続いてすごいね」が、逆に人間性を肯定することになると。

そうです。人間性を肯定すれば、絶対に「現人神」にはならない。そうやって「天皇」を人間化すればいいんです。

要するに、古い家系の人だけど「この人のために死になさい」って言われても「嫌です。俺は馬の骨の家系だけど、俺だって同じ人間だ」となるでしょう。 それで十分です。

でも僕の考え方はあまり支持されていないらしく本も売れない。だけど、非常にわかりやすい理屈だと思うんですよね。

国の成り立ちだって、神聖視する必要はないですよ。島国の日本に暮らす人々は、外地からきた流れ者です。外から来て、吹き溜まったのが日本人だと思っています。

――ただ、現代の日本では「吹き溜まり」というのは意識されてない気がします。

地図を見ればわかりますが、日本はもともと辺境なんですよね。大陸から来たとすれば、日本の東は太平洋。移動の果てにたどり着いても先はない。

そうなると、ここでいろいろと混ざり合うしかない。そうやってできたのが日本だったのでは。建国神話もそうですよね。「天津神」は外から来た流れ者というニュアンスを感じます。そして、先住民の「国津神」を押しのけて入ってきた。

そう考えれば、純潔の「神国日本」ではなく「混血・流れ者の日本」になるわけです。

――前の天皇(上皇陛下)は、2001年に韓国とのゆかりを感じています」と、渡来人について言及しています

日本と韓国との人々の間には、古くから深い交流があったことは、日本書紀などに詳しく記されています。韓国から移住した人々や、招へいされた人々によって、様々な文化や技術が伝えられました。


宮内庁楽部の楽師の中には、当時の移住者の子孫で、代々楽師を務め、今も折々に雅楽を演奏している人があります。こうした文化や技術が、日本の人々の熱意と韓国の人々の友好的態度によって日本にもたらされたことは、幸いなことだったと思います。日本のその後の発展に、大きく寄与したことと思っています。


私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く、この時以来、日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また、武寧王の子、聖明王は、日本に仏教を伝えたことで知られております。

宮内庁「天皇陛下お誕生日に際し ― 平成13年

まさに。自分たちの祖先に渡来人がいることを最も痛切に自覚していたのは、歴代の天皇ではなかったかと思うわけです。

私たちは、お正月は初詣で神社や寺に行って、クリスマスはツリーを飾ってケーキを食って……。そういう節操がない国民ですが、それはそれでいいんじゃないんですか。

伝承をベースに、あくまでサブカルとして古代史を描いてきましたが、最終的に至ったのはそういう認識でした。

そもそもこの国は、雑多なものが外から集まる国なんですよ。そこを認めれば、世の中の争いも、ずいぶんと減るのではないかと思うわけです。

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