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「人と人はわかり合えない」ガンダム生みの親・安彦良和は語る、人類と歴史の宿命を。【終戦の日】

71歳の安彦氏は、実際の「歴史」とも向き合っている。目下のライフワークは近現代史をテーマにした作品。『虹色のトロツキー』では中国東北部に存在した日本の傀儡国家「満州国」を描いた。連載中の『乾と巽』では「シベリア出兵」に取り組んでいる。

『機動戦士ガンダム』の生みの親の一人である安彦良和氏は、40年前に「ガンダム」のキャラクターを作り上げた。近年では『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』で登場人物たちの過去、すなわち「歴史」を描いてきた。

71歳の安彦氏は、実際の「歴史」とも向き合っている。目下のライフワークは近現代史をテーマにした作品。『虹色のトロツキー』では中国東北部に存在した日本の傀儡国家「満州国」を描いた。連載中の『乾と巽』では「シベリア出兵」に取り組んでる。

複雑な背景を持つ近現代史をなぜ描き続けるのか。安彦氏は「善悪二元論で歴史を解釈することは、とても危ない」と、歴史との向き合いかたに警鐘を鳴らす。

日本が歩んできた道を問い続ける安彦氏に、歴史と向き合う作法と意義を聞いた。

人間は、トラウマで心にかさぶたを作る

――安彦さんは『虹色のトロツキー』で、「満洲国」にいた人々に取材を重ねています。戦後74年を迎えた今、近い将来に戦争経験者がいなくなることが現実になろうとしています。

あの戦争で、生きるか死ぬかの経験した人がいなくなる。そういう時代が来る。平和だからこそですが、一方では大変恐ろしいことだなと思います。

僕は1947年生まれで、タッチの差で戦争を経験していない。「戦争は絶対いけない」「どんな戦争もやっちゃいけない」と、生死の境をさまよってきた人たちの言うことを厳かに聞かなきゃいけないという思いがある。

しかし、そこで「お説ごもっとも」と、思考停止をしてもいけない。

「戦争」や「戦い」を一般論化して、何が肯定されるか、また否定されるかというのは、なかなか難しい。ただ、戦争を経験した人が「とにかく戦争はダメだ」と語る証言は、とても貴重だと思うんです。

もっといえば、本当に生死の一線を越えてきた人たちの中には、そのことを語り残さなかった人もいるでしょう。

――過酷な体験は振り返りたくないという人を、私たちが責めることはできない。

「思い出してどうなるのか」「悪いことを思い出すだけ」と、あえて語らなかった人もいたと思うんです。

人間というのは、トラウマで心にかさぶたを作る。それを剥がすのは、残酷なことじゃないかと。それを語らせるのは、非常に微妙な作業でもあります。

そのかさぶたが、ある日突然破れて、感情が噴出することもある。本当に深刻なトラウマっていうのは、必死にかさぶたでふさごうとするけど、癒えないわけですよね。

我々の親の世代は、一種の自己防衛で語らなかったという気もします。語られていない歴史、そこに思いを致すことも必要かもしれません。

『虹色のトロツキー』で描いた「リアルな目線からの満洲国」

――『虹色のトロツキー』の主人公は、ウムボルトという青年学生でした。なぜ旧満洲を描こうと思ったのですか。

そもそもは、ある時期に当時の旧満洲を撮影した写真を見たことがきっかけでした。多くはいわゆる宣伝写真でしょうが、そこからは人々の生活の匂いを感じた。

いわゆる「満洲モノ」と言われるものには2パターンがありました。一つは、加害者として、あるいは被害者の立場から「満洲国」を告発するもの。もう一つは「馬賊」モノのような娯楽作品です。

そのどちらでもなく、「満洲国」という存在を正当化はしないまでも、そこに生きた人たちを描きたい。

なので、等身大のウムボルトという、日本人とモンゴル人との間に生まれた青年学生のリアルな目線で旧満洲を描こうと思いました。

――主人公は無名のキャラクターで、その周りに関東軍の石原莞爾や辻政信、満映理事長の甘粕正彦、女優の李香蘭など実在の人物が出てくる。無名の人の目線からあえて物語を描いたのはなぜですか。

ウムボルトは混血の青年、いわばマイノリティです。その意識は僕の中にもあった。

マイノリティの意識が自分にもあるからですかね。馬の骨の話もそうだし、北海道っていうのはある意味で外地ですからね。北海道は今でも本州を「内地」と言っているくらいですから。

メインストリートではない、辺境の目線から見えてくるものがあると思うんです。

――「満洲国」は「帝国日本の脆い理想が現実と渡り合った成れの果て」だったと。そこにいた青年たちは、理想と現実が複雑に交錯した時代を生きた。その舞台となったのが満洲建国大学でした。

満洲建国大学は、石原莞爾が唱えた「五族協和」の理想に基づき、石原の支持者だった辻政信が開学させた。新国家に有用な人物を生み出すための国策大学でした。

しかし、その実態はとても多様だった。門戸は様々な民族に拓かれ、中国やモンゴルの人も入学していました。

印象的だったのは、中国や旧満洲の人たちが建国大学に入りたがっていたということことでした。もう日本の敗戦が目の前に迫っているようなときでも、喜んで入学した人がいた。そういう夢があったのかもしれない。

「五族協和」「王道楽土」というのは、単なる空虚なスローガンではなく、彼らなりにあくまで一つのリアリティを求めた言葉だった。実際に、そこを本気で目指していた学生もいたわけです。

建国大学の同窓会の雰囲気や結束の固さを見ていると「この人たちは真面目だったんだ。本気だったんだ」という気がしました。

それらも含めて、全ては世界史の過酷な現実に押し流されてしまった。それが歴史の恐ろしさだとも思うわけです。

善悪だけでは語れない。それが「歴史」だ

――つまり、善と悪だけでは語り得ないっていうところを表現したいっていうのがあった。

「満洲国」は、軍国主義や日本の大陸侵略を象徴する国家ではありますが、それだけでは語り得ないのではないか。

確かに、旧満洲をめぐる陰謀めいたものが挫折し、否定され、大きな悲劇が起きた。あの国はどうしたってつぶれる運命だった。

しかし、実はそんな単純な話ではなかったのではないかという思いもあるんです。善悪二元論で歴史を解釈することは、とても危ないと思います。

――作品では、独断専行でノモンハン事件の犠牲者を増大させた陸軍参謀・辻政信が登場します。辻はガダルカナル島攻防戦を指導するなど「作戦の神様」と呼ばれましたが、戦後は旧軍の精神主義を体現していた人物とみなされた。そんな「絶対悪」とも評される人を、安彦さんはコミカルに描きました。

『虹色のトロツキー』で困ったのは、取材で当時の話を聞くと「みんないい人だった」という話になることでした。

連載していた頃、辻政信は世間ではそれほど扱われていなかったと思います。もちろん「悪」とされても仕方がない人ですが、実際に関係があった人から話を聞くと、みなが「魅力的だった」と言うんです。

「神出鬼没な人だった」「声がでかかった」とか、懐かしい目で語るんですね。

人間というのは「こいつは超悪い人だった」「こいつは善人だった」と単純に割り切ることはむずかしい。直接会ったりすると意外と魅力的で、コロっと好きになるようなことがあると思うんです。

なので、無条件に悪と断じたりするのではなく、面白いキャラだが基本的にダメだよと。そういうリアリティを反映した描き方をしたほうがいいんじゃないかなと思ったんです。

―― 一方で、戦時中のスパイ事件(ゾルゲ事件)に絡んで処刑されたジャーナリストの尾崎秀実については、少し不気味な描き方だなと感じました。尾崎は戦後に平和主義者として語られがちでしたが…。

尾崎については中途半端な描き方しました。家族を愛した平和主義者として語られますが、単に平和を愛した人物ではありません。

尾崎は近衛文麿首相のブレーンで、そのための言論活動もしていました。講演では「資源を得るために日中戦争をどんどんやれ」というようなことを言っています。

そして日本の情報をソ連のスパイ、ゾルゲに売っていた。娘たちには「いずれ戦争は終わります。日本が勝ちます。頑張りなさい、堪えなさい」って言うんですが、彼が売った情報で、日本は戦略的に負けたわけです。

それなのに戦後の僕らは、尾崎が獄中で妻と娘に書いたメッセージ「愛情はふる星のごとく」に涙するわけです。「平和主義者なのにこんな目にあって、家族も可愛そうだ」と。この本はベストセラーになりました。

尾崎を戦争の犠牲者として、無条件に平和主義者と定義するのは、戦後的な美化だと思います。

戦後の「マルクス主義」的な歴史観の是非について

――戦前は『古事記』の神話さえも史実として教えられましたが、戦後は批判的に読まれるようになった。戦後、歴史の教科書は大きく変わりました。

戦前期は基本的に「悪」の時代。戦後は「善」の時代とされますよね。

民主主義の下、過去を悔い改めない人たちを少数派にし、「善の戦後史」を作れば、日本は世界に輝く平和国家になる。それが戦後の民主主義教育の考え方でした。

でも、なかなかそうはならないわけで、いくら経っても悔い改めない人たちがいるわけです。そして、その色合いはむしろ強まってく。そこに大いなる「なぜ」があるわけです。

――その「なぜ」とは。

戦後の支配的革新思想「マルクス主義」、もっと言えば「社会主義」の敗北につながる問題です。

世界では18世紀ごろから「人権を大事にしよう」という思想が、啓蒙思想として出てきます。そして「世の中は時代が進むにつれて、より人権が尊重されるようになり、必ずよくなる」という考え方あった。それは今でもあります。

でも、ヒューマニズムだけでは力が足りない。それを科学的に立証しなければいけない。歴史には停滞する時期や逆行する時期もありますから。

それを冷徹に分析し、まあ世の中はおおむね「進歩」している。そう捉えたのが「マルクス主義」でした。

この思想は「科学的」であることを売り物にしていた。世の中の「進歩」を信じていた人々は、それにすがった。

やがて「科学的」であるはずの思想を盲信する人が生まれ、「党派」をつくり、それを教団化し、宗教的なものになってしまった。

ただ、それにも終わりがやってきます。1989年にベルリンの壁が崩壊し、90年に冷戦が終結し、91年にはソ連が崩壊した。社会主義の実験は失敗に終わり、「あれあれ、善玉が負けちゃった」となる。

「社会主義は善」「悪は滅び、善は勝つ」という思想が、逆に不幸を招いたような気もするわけです。

――社会主義は、自らが否定した宗教的なものになってしまった。内ゲバもあったし、それこそヒューマニズムが欠如していた。

おっしゃるとおり「科学」という名の神を信仰する宗教になってしまった。

結論を言えば、やはりヒューマニズムを安易に「卒業」してはいけなかった。それが社会主義、史的唯物論的な考え方に置き換えられた時点で失敗したと思うんですよね。

歴史への科学的な姿勢こそ、思想の進化だと我々はずっと思ってきたわけです。ヒューマニズムなんて甘っちょろい。現実に負けてしまうとね。そういう考え方の中で人間的な目線を置いてきちゃったんです。

「ニュータイプ」に憧れを抱くのは危うい

――安彦さんがおっしゃるように、今を生きる私たちがヒューマニズムを取り戻すためにはどうすれば良いのでしょうか。

ヒューマニズムを、ひたすら素朴に追求することじゃないですかね。

簡単に言えば、階級格差や貧富の差を見すえて、もっと人権が尊重される社会にする。もっと多くの人が幸せだなと思える社会を地道につくっていく。そういうことだと思うんです。

前衛党を作って、戦略的に練り上げた革命を達成して、究極の理想社会に向かって指導されていくべきだ……みたいな部分を否定すればいい。

ヒューマニズムの社会をつくるには、もっとたどたどしくていいんですよ。みんなが「他人の痛みを知ること」「他人の気持ちになること」を意識する。そういう社会を目指そうということです。

――一方で、私たちは心のどこかで「よき指導者」を求めているような気もします。マスコミでも「新たなリーダーが必要」みたいなことが言われます。ともすれば、『機動戦士ガンダム』のギレン・ザビのような、強いリーダーシップを求めてしまいがちです。

リーダーを求めること自体は良いと思います。ただ、リーダーに全権委任するのがいけない。リーダーだって人間で、限界があるわけです。「いい人だと思ったけど案外ダメだな」と思ったら、さっさと見限る分別を持っていればいい。

宗教的なカリスマや、『ガンダム』でいう「ニュータイプ」的なものに憧れを抱くのは危うい。常に権力者を疑いながら、くよくよと迷いつつ、道を探し求め続けるしかない。

――それは、古代ギリシャのオストラシズム(陶片追放)からずっと続いている。

それで何がいけないんでしょうか。やはり、指導者はほしいですよ。もちろん個々人の能力差は当然ありますし、権力欲で成り上がろうとする者も絶えずいる。

だからこそ、僕らは目を肥やす必要もある。「あいつはろくでもねえ」「この人がいいな」と、ずっと観察し続ける。

「ナショナリズム」と「パトリオティズム」の違い

――『虹色のトロツキー』の主人公ウムボルトは「五族協和」にこだわっていました。自分は「満洲国人でありたい」と。一方で、民族主義の発露は、時として自民族が優れているという選民思想、偏った愛国心の萌芽となる危険性もあります。

かつて親しくさせていただいていた松本健一さんという思想家がいました。彼は意識的に「ナショナリズム」と「パトリオティズム」を分けていました。「ナショナリズムには乗れないけど、パトリオティズムならいい」と。

「よき愛国心」という定義は難しいけど、愛国心というよりは「愛郷心」というのかな。「国」となると色々な要素が入ってくるんだけど、ふるさとを愛する心みたいなニュアンスをこめておられたと思います。

――「故郷」と書いて「くに」と読ませることもありますね。

パトリオティズムは、同郷心に近いかなと感じます。ウムボルトは、パトリオティズムとしての「満洲国」の可能性を探っていたのだと思います。

もしかしたら「満洲国」というエスニック国家が存在し得たんじゃないかと、僕も思うわけです。無論、それを存在できなくしたのは、当の日本だったわけですが。

「五族協和」という標語の是非は別として、石原莞爾などは「満洲国民になる」みたいなことを一時言ったりしていました。

――作中で、李香蘭が「日本人が中国人になったり、中国人が日本人になったりするって間違っている」「目的が、国が違う同士が仲よくするためにお役に立てるならいいことなんじゃないか」と話すシーンが印象的でした。

「満洲国」というビジョンを示しておきながら、「満洲国」というアイデンティティを形成するのを結局最も強力に妨げたのが日本だった。そこに大きな問題があるんじゃないのかな。

「五族協和」を掲げながら、本当の意味で「満洲人のための国家建設」をしなかったわけですからね。結局は日本のためだったわけですから。

「人と人は、わかり合えない」 だからこそ…

――『機動戦士ガンダム』でも、ジオン公国の選民思想的な「ジオニズム」という言葉が登場しました。

『ガンダム』の舞台は宇宙ですが、そこには地球上で繰り返されてきた争いの構造が埋め込まれています。地球を出て宇宙に移住した彼らは、民族としての結束を保つために「ジオニズム」というイデオロギーを形作るわけです。

ユダヤ教の選民思想や、ナチス・ドイツのゲルマン民族の優越思想、そして戦前日本の純血思想、これらは古代からずっと続いてきた構造です。

自分たちを選民と考えれば、それ以外の人々への差別が生まれ、ルサンチマン(被害者意識)がまた生み出される。

人はルサンチマンを再生産し、他者と争い、それを繰り返してきた。それぞれの時代を生きた人間たちが、何千年にもわたって積み重ねてきた葛藤。それが「歴史」であり、『ガンダム』が提示したメッセージでもありました。

つまりは、「人と人はわかり合えない」ということです。

――歴史と向き合うということは、わかり合えない他者と向き合うことでもある。

中には「人はわかり合えるはずだ」と信じる人もいるでしょう。人間にとって平和に暮らことが何よりの希望なのに、なぜ戦争をしてしまうのかと問い続ける人もいる。

しかし、実のところ逆だと思うんです。人と人は、わかりあえなくて当たり前なんです。この「人と人」は、「国と国」と言い換えることもできます。

「きっと自分のことをわかってもらえる」という考えは危険です。其処から反感や絶望が生まれる。「ニュータイプ」なんてものも幻想です。「だったらいいな」ということを究極的な夢として表現している。だからアムロとララアの関係は悲劇的に終わる。

もちろん、だからといって、「わかり合えないなら何をしても良い」ということでもありません。

「わかり合えない」という前提を認めた上で「でも、わかりあえたらどんなにいいだろう」と考えること。そうすれば、相手の良いところが見えてきたりもする。私たちの身近な人間関係もそうですよね。

人は、歴史を巻き戻すことはできません。でも、似たようなことが繰り返されるのだったら、「なぜあの時失敗したのか」「あの時、もしもこうしていたら…」と考える。それが、同じ轍を踏まないために必要だと思うのです

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