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人々が寄せた2390通の戦争体験。この庶民の営みは、歴史書には記されない

雑誌『暮しの手帖』が昨年から今夏にかけて、読者から募った戦争体験の手記を3冊の本にまとめた。創刊71年の家庭雑誌は、なぜ「戦争の記憶」の継承に力を注ぐのか。

「結婚式は、もんぺ姿だった」「愛犬を軍用犬として供出した」「亡くなった子を川に投げて水葬にした」「足の裏についていた飯粒を食べた」――。

雑誌『暮しの手帖』が昨年から今夏にかけて、読者から募った戦争体験の手記を3冊の本にまとめた。

初めての恋、学生寮で仲間と語り合った日々、食べることの喜び、愛する家族との別れ。そこに編まれたのは、歴史書には記されない庶民の営みだ。

同誌は50年前にも戦争体験をまとめた異例の特集を組んでいる。創刊70周年を迎えてもなお、なぜ「戦争の記憶」の継承にこだわるのか。BuzzFeed Newsでは編集長の澤田康彦さんと担当編集者の村上薫さんに話を聞いた。

戦争の記憶を昭和から平成、そして新たな時代へ

――3年前、創業者の大橋鎭子と花森安治をモデルにした朝ドラ「とと姉ちゃん」が放送され、50年前の特集「戦争中の暮しの記録」が再び注目を浴びました。

村上:ドラマでは、唐沢寿明さん演じる花森をモデルにした花山伊佐次が、戦争特集号に命をかけて取り組むエピソードがあったんですね。

視聴者の方からも「実際にこの本ってあるんですか?」というお問い合わせをたくさんいただいたんです。新しい世代に知っていただくきっかけになりました。

――昨夏の『戦中・戦後の暮しの記録』と、今年刊行された『戦争が立っていた 戦中・戦後の暮しの記録 拾遺集 戦中編』『なんにもなかった 戦中・戦後の暮しの記録 拾遺集 戦後編』の背景にも、50年前の戦争特集があった。

澤田:僕は2015年秋に編集長を引き継ぎました。就任して日が浅い中で、この時代に何をすればよいのだろうかと自問自答が続いていました。

いまもその問いは続いているのですが、あの頃はドラマもひとつのきっかけとなり、『暮しの手帖』がどういう雑誌なのかを再び勉強することができましたね。

澤田:一人ひとりの暮らしが大切、と考えた時、服を着ることの自由、食べることの喜びと同じように、「戦争」を繰り返さないことの努力も大切なテーマの一つではないかと。

その証左として、50年前に寄せていただいた戦争体験の手記もしっかりと保管されていました。私たちは小さな所帯ですが、歴史はあるのです。

そして、折しも創刊70周年のタイミングを控えて、どんな企画をやろうかと考えていた時期でもあったのです。

『とと姉ちゃん』があり、片渕須直さんの映画『この世界の片隅に』が生まれた。時代の意識・気配が同じ方向を向いているように確信しました。主人公のすずさんのような、名もなき庶民の目線で戦争を考えることの意義も感じたのです。

――世の中では憲法改正が現実味を増したり、そういう世相もあった。

澤田:まったく偶然ですが、平成の終わりにそんな状況が重なった。それらのことが50年の時を経て、再び戦争に関する特集をやる動機となりました。

『暮しの手帖』は「戦争のない世の中」を目指す雑誌

――なぜ、生活雑誌の『暮しの手帖』が戦争の証言をまとめたのでしょうか。

村上:それは、私たち『暮しの手帖』という雑誌の成り立ちにも大きく関係しています。

『暮しの手帖』は、終戦後の1948年9月にスタートし、昨年70周年を迎えました。

創刊のきっかけは、創業者・大橋鎭子の「家族を、女の人を、幸せにする雑誌を作りたい」という思いでした。

大橋は戦中から戦後にかけて『日本読書新聞』に所属し、ここで後に『暮しの手帖』の編集長となる花森安治と出会います。

花森は戦時中、大政翼賛会の宣伝部で戦争遂行に関わっていましたが、戦後は『日本読書新聞』を手伝っていました。

当時25歳だった大橋は、「花森という天才的な編集者がいる」と上司から聞きます。そして、戦争に巻き込まれ、満足に勉強ができなかった女の人たちのための出版の話を、花森にもちかけました。

花森はこう答えたそうです。「一つだけお願いがある。戦争をしない世の中にしていくための雑誌をつくる。そう約束してほしい」と。

二人はこの理念のもと、庶民の目線で、戦争で脅かされた暮らしを復興するための雑誌を立ち上げた。それが『暮しの手帖』でした。

澤田:ところが、高度経済成長で「もはや戦後ではない」と言われた時代に入り、人々の暮らしがどんどん変わっていきます。「戦争を知らない子供たち」といった歌も唄われ、戦争の記憶も風化し始めていました。

そして生まれた、50年前の『戦争中の暮しの記録』

――「記憶の風化」というと…

村上:創刊から19年が経った1967年。ちょうど終戦の年に生まれた子どもたちが、新卒で社会人になった年ですね。花森は新入社員の戦争知識の低さに驚き、愕然としたそうです。

彼らは「疎開」という言葉を知らなかったそうです。いまこそ若い世代に向けて、戦争の記憶を伝えておくべきじゃないか。そう考えた当時の編集部は、一般の読者から手記を募集し、それをまとめた本をつくろうと企画しました。

はじめは「別冊で作ろうか」ぐらいの感覚だったそうですが、読者からは1736通もの手記が届いた。その思いに応えるために、全社一丸となって通常号を丸ごと1冊、この特集にあてました。

それが『暮しの手帖』1世紀96号 特集「戦争中の暮しの記録」(1968年8月刊行)です。

澤田:戦争が終わって、たった20数年で、日本がそんな状況になってしまった。花森には、そのことへの危機感があったのでしょう。

だから「100号」を迎えた後に「101号」とはしなかった。誌面について改めて考え直して、「2世紀1号」として号数を刻むことにした。以降、100号ごとに「1世紀」と区切り、その度にこの雑誌の原点を考えるいい機会になっています。

この7月には「第5世紀1号」を刊行しました。いまなお「『暮しの手帖』とはなにか」と全員で考え続けています。

――50年前も、今も「戦争」を考える企画を扱ったのは、創業時からの一貫したポリシーがあってこそなんですね。

澤田:昨夏から今年にかけてのシリーズを刊行し終えて思うのは、こうした戦争体験を雑誌として募集し、本にまとめられたのは『暮しの手帖』だからこそ成し得たと自負するところがあります。

なぜなら『暮しの手帖』は広告がない雑誌ですから。広告がある雑誌では、まずできない企画だと思うんです。

向き合うのは、読者です。私たちは読者とだけ向き合って、毎号の雑誌を作っています。そこに忖度はありません。

ブレることなくそれを71年続けてきたからこそ、堂々とできるのだと思います。呼応してくださる読者がちゃんといる。先達のおかげですね。

――別冊ではなく、定期刊行の『暮しの手帖』の一冊として刊行した。当時の読者は驚いたことでしょう。

村上:当時を知る、社の先輩たちからは、やっぱり心配で怖かったと聞きました。「ものすごい批判を受けるんじゃないか」「まったく売れないんじゃないか」と不安でいっぱいだったそうです。

ところが、大きな反響があって、すぐに完売。翌年には書籍化し、現在までに累計発行部数は100万部以上になりました。

未来に残したい「2390通」の思い

―― 50年前の投稿原稿が残っていたことは驚きました。それでも、昨夏のシリーズ1作目『戦中・戦後の暮しの記録』では、新たに手記を募集しました。

澤田:せっかくだから、また新たに募集できないだろうかと思ったんです。

背中を押された動機のひとつに、僕の母のことがあります。(編集時の3年前)既に87歳だったのですが、まだしっかり記憶があって、十分に体験を、時系列で語ることができるんですね。

長い人生の途中で忘れていることはあっても、あの時代に経験した苦しかったこと、嬉しかったことは凝縮されて残っている。その結晶化されたものをぜひ教えて下さい。そういう企画だったわけですね。

戦争体験者にはご高齢の方も多い。もはや書く力を失っているんじゃないだろうかという危惧もありましたので、身近な人に体験談を書きとめてもらう「聞き書きも可」という募集をしました。結果、全体の2割ぐらいはこの形式の投稿でした。

村上:半年の応募期間に、多い時には1日30〜40通、締切の日には一日で340通ほど届きました。最終的には2390通。自分の経験を語り残したい、未来の世代に伝えたいという思いの強さを感じました。

一方で、思いがけないほどの投稿数だったので、全社員で査読し、泣く泣く選考することになりました。

テーマや地域の重なりにも配慮しつつ……。1作目の時点で惜しくも未掲載になった投稿は、「第2集へ」と記した箱に収めていきました。

一つ一つ、全てが大切な体験です。だから、選考の際に「×」とつけることなんてできないんです。「第2集へ」とすることで、私たちも救われた気持ちになって……。

澤田:文学賞を選ぶのとは全く違うんですよね。

文章の上手下手は関係ないんです。全ての手記から「今こそ、残しておかなければいけない」というような、未来ある人たちへの全身全霊をかけた愛情を感じました。

いただいた手記の数だけ、2390の思いがある。それは間違いなく貴重なものです。僕たちは、それをリスペクトしなきゃいけないと、受け取って一番に思いました。

「戦中」だけでなく「戦後」も大変だった

――『戦中・戦後の暮しの記録』は、新たな手記だけで構成されていましたが、今年刊行された2作目『戦争が立っていた』と3作目『なんにもなかった』には50年前に選外となった投稿も採用されました。

村上:これは以前からの課題だったのですが、50年前の投稿の中にはとても貴重な手記がたくさんあったんです。しかし、当時は採用されなかった。

よくよく読むと、引き揚げの話だったりとか、戦後のお話がメインだったんですね。つまり「戦中」の体験ではなかったんです。

しかし、保管しているだけではもったいない。そこで、拾遺集の2冊に、当時未収録の手記も収録することにしたんです。

――そうか。50年前は「戦争中の暮しの記録」という趣旨でまとめられていたから…。

村上:優先順位の問題だったのでしょうね。でも、庶民は戦中だけでなく戦後も大変だったんです。

澤田のお母さんが「戦後の方が大変だった」っておっしゃっていたそうです。この声が私たちの背中を押しました。

澤田:戦争中は、敵に勝つことがみんなの共通の目的だったし、厳しい暮らしでも「日本は勝つ」と信じることで、自分を騙すことさえできたわけです。

しかし、敗戦を迎えると、今まで信じていた国家が突然消えて、連合国の占領下に入った。当然、「明日からどうやって生きていけばいいのか…」ってなりますよね。

灯火管制がなくなり、夜は明かりつけることができるようになります。でも、肝心の先立つものがない。食べ物も、着るものも、家もない。身内も死んでしまった。

そんな中で立ち上がってきた人たちの新たなスタートラインで、何が起こっていたのか。それを象徴する言葉が「なんにもなかった」だと思い、3作目のタイトルにしました。

表紙の「おにぎり」と「おはぎ」に込められた思い

――今年刊行された『戦争が立っていた』『なんにもなかった』の表紙は、それぞれ「おはぎ」と「おにぎり」のイラストでした。素朴な食べ物をモチーフにしたのはなぜですか。

澤田:今回も、大切にしたのは「あの時代になにがあって、私はなにを見たのか」という、生活者の視点です。

教科書のような英雄や兵士たちの歴史本ではなく、一般庶民が「あの時、どんな気持ちになったのか」「どんな体験をしたのか」という目線を大事にしたいと考えました。

村上:手記を読んで、食べ物がなかった苦労がここまでだったのかということを思い知らされたんですね。

澤田:「おにぎり」も「おはぎ」も、多くは誰か大切な人のために作るものなんです。人から人へ。コミュニケーションの象徴とも言える。

黒木和雄監督の遺作で『紙屋悦子の青春』という戦時下を描いた傑作映画があります。

原田知世さん演じるヒロインが、特攻隊として旅立つ海軍航空隊員のために、おはぎを作ってあげるシーンがあるんです。

でも、彼らは礼儀正しいから、一個しか食べない。本当は、もっと食べたいだろうに……。

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「紙屋悦子の青春」予告編 / Via youtube.com

「紙屋悦子の青春」予告編より。

――おはぎが、別れの食べ物というのは衝撃的です。実際、食べ物にそれほどの意味が込められてしまう時代だった。

村上:何かの時のためにと仕舞い込んでいた、なけなしのお米、あずき、お砂糖を引っ張り出してきて、ようやっとこしらえてるんですね。

澤田:もう一つのおにぎりは、僕には『この世界の片隅に』のラストシーンが思い浮かびます。孤児にあげる、あのおにぎりです。 おにぎりは「おむすび」とも言いますよね。

――なるほど、人と人を「むすぶ」もの。

村上:おにぎりは、ご馳走だったんですね。何人かの引き揚げ者の記録にあったのですが、外地から船で引き揚げ港に着くと、まず引き揚げ者収容所に入れられるんです。

体に寄生したシラミの駆除のほか、13歳以上の婦女子は逃げてくる最中に暴行されて、妊娠してないか調べを受けたそうです。数日間収容所で過ごしたあと、故郷に向かったそうです。

その時、ささやかな給付金とともに、おにぎりを貰ったと書いてありました。

戦後間もない時期ですから、どこから支給されたのか詳しくは書かれてないんですが、みなさん「こんなに美味いものが世の中にあったのか」とつづっていました。

――今の時代、コンビニに行けばおにぎりがたくさん並んでいます。でも、当時はその1個を手に入れるのがとても大変だった。

澤田:おにぎりって、とっても日本的で、素晴らしい食べ物だと思います。食べる人のことを考えて、作り手が握ったものですからね。

これがなくなるような世の中にしたら絶対にダメなんです。これがいつも普通に食べられる世界が幸せなんです。そういう思いも込めました。 お弁当って、ふたを開くと誰かの笑顔が見える。

目指したのは「まだ見ぬ君」に、戦争の記憶を伝えること

――2390通の応募がありましたが、着地点をどこに定めるかが難しかったのでは。

澤田:編集をする上で、この本が「どこに向かう本なのか」という指針を立てなきゃいけませんでした。そのために、まずは読者に向けての「まえがき」(巻頭文)から書いたんです。

君、忘れてはいけない。


きのう、戦争があったのだ。


昔むかしの物語ではない。ほんのついきのう、流れてきた時間の、うすいドアの向こうに、それは横たわっている。

(『戦中・戦後の暮しの記録』(2018)より)

澤田:最初は、普段の『暮しの手帖』の中で書いているように、読者である「あなた」に向けて「ですます調」で書いてみたのですが、フィットしなかったんですね。もっと訴えかける激しさが欲しくて、悩みました。

そこで、50年前に花森が戦争特集で書いた巻頭文を読んでみたら、そこには「あなた」ではなく「君」と書かれていて、「そうか。これだ!」と。

いま、君は、この一冊を、どの時代の、どこで読もうとしているのか、それはわからない。君が、この一冊を、どんな気持で読むだろうか、それもわからない。


しかし、君がなんとおもおうと、これが戦争なのだ。それを君に知ってもらいたくて、この貧しい一冊を、のこしてゆく。


できることなら、君もまた、君の後に生まれる者のために、そのまた後に生まれる者のために、この一冊を、たとえどんなにぼろぼろになっても、のこしておいてほしい。


これが、この戦争を生きてきた者の一人としての、切なる願いである。

(『暮しの手帖』1世紀96号 特集「戦争中の暮しの記録」(1968)より)

澤田:戦争の悲惨さは、次の、そのまた次の世代に伝えなければいけないもの。「まだ見ぬ君」に伝えていかなければいけない。

過去から、現在を経て、さらに未来に向けて伝えたい。このメッセージが、一番分かりやすいかなと思ったんです。

いま、この一冊を手にする君がもし若いとしたら、平成に、あるいは二十一世紀に生まれた人かもしれない。


だが、君が誰であろうと、忘れてはいけない。


ドアの向こうに、別の戦争が目を光らせて待っているということを。


なぜなら人類の短い歴史とは、戦争の歴史であるから。


戦後とは、戦前のことだから。


先の本のメッセージを、ここに繰り返す。


これが戦争なのだ。


それを知っておきたい。君に知ってもらいたい。


そしてできることなら、君の後に生まれる者のために、そのまた後に生まれてくる者のために、この新しい一冊も、たとえどんなにぼろぼろになっても、のこしておいてほしい。

(『戦中・戦後の暮しの記録』(2018)抄)

一人ひとりの暮らしを大事にしていたら、戦争はなかった

――歴史の中で、名もなき人々がどんな生活を送ってきたのか。教科書だけでは、うかがい知ることは難しいです。

澤田:最近、講演などの機会がある時、若い人にこんな話をするんです。

「皆さんが勉強してきた歴史は、卑弥呼あたりから始まって、歴代の天皇の業績を学んで、源頼朝が鎌倉幕府を開いて、織田信長が戦国時代に活躍して、徳川家康が天下人になった……みたいなものですよね」と。

歴史の栄光も悲劇も、彼らの記録なんです。そういうものが戦史、戦記となって、例えば『平家物語』などで伝えられている。

世界史もそうですよね。アレキサンダー大王が東方に遠征したり、ナポレオンがフランスの皇帝になったとか。

――私たちが知っている歴史は、英雄譚だった。

澤田:けれども、実際の戦乱などで苦しんだのは庶民でした。戦乱の裏で、すごく理不尽な思いで、歯を食いしばって生きてきたと思うんです。

でも、そういった声はなかなか歴史には残されていない。その問題意識、秀でた眼を、花森安治さんは持っていた。

実際に死線をくぐり抜けた人に、体験手記を書いてもらうのがいいだろうと。そういう記録を残そうとチャレンジした雑誌って、なかったと思うんです。

英雄ではない、名もなき人々の、苦難に満ちた日々はどんなものだったのか。そこに思いを馳せること。一人ひとりの暮らしが一番大切だ。その思いこそが『暮しの手帖』のベースになっています。

一人ひとりの暮らしを大事にしていたら、戦争はなかった。上からではなく、下から、地面から「暮らし」を考えていくことが大切だと思うんです。

――『戦中・戦後の暮しの記録』シリーズで、澤田さんの巻頭文では一貫して「戦後とは、戦前のことだ」という姿勢が貫かれています。平和な時代だからといっても、危機感を感じていると。

澤田:少なくとも、僕らが歴史を学ぶ意味というのは、そういうことだと思うんです。

平和なんて奇跡の上に成り立っていて、人類の歴史は延々戦いの連続だった。今、戦争状態ではない方がおかしいぐらいだと思います。

平和が何十年も続くなんて、それはちょっと変だねって疑い、おびえた方が、むしろ健全だと思います。

戦争が立っていたのは、いまから八十年近く前のことです。


それはあなたには「遠い過去」ですか? それとも「ついこの間の出来事」でしょうか?


受け取り方はさまざまだと思います。しかしながら、ひとつだけお伝えてしておきたいことがあります。


新しい戦争は、私たちの人生、暮らしという廊下を曲がった先に立っているかもしれない、ということ。


かなしいけれど、それが人類史なのです。

(『戦争が立っていた 戦中・戦後の暮しの記録 拾遺集 戦中編』)

――昨年、手記を応募した人の中には、この1年の間に亡くなられた方もいらっしゃると聞きました。

澤田:そう、つまりこれらは本当に「遺言状」のような重さがあるんです。これから10年、20年も経てば、あの戦争の経験者がゼロになる日がくるでしょう。

正直に言って、ここまで一つ一つエネルギーを込めたものを送っていただけるとは思いませんでした。最期のリアルな言葉がここにはあります。

けれど、それは生き残れた人、生きながらえた一握りの人の声でしかありません。

たまたま『暮しの手帖』に触れたり、文章を書ける能力や、その人が喋ることを書き留めてくれる人が身近にいたりする、ほんの一握りの中の、さらに一握りの人たちでしかないわけです。

これらの本の奥、向こう側には、もっと悲惨な出来事、もっともっと深い闇が眠っていると想像するべきです。

澤田:生き残っても、あまりに惨めで、つらい体験だったから、家族にも打ち明けられなかったという人もいます。

だからこそ僕たちは、生き残った人の話に耳を傾け、さらに死者の「声なき声」を想像し、耳を澄まさないといけない。

人間は一度読んだだけでは忘れてしまいます。だから繰り返し、何度も何度も繰り返して読まなきゃいけないんです。

僕らの先達が最期に託したかった祈りが、ここにあるんです。