コロンバイン高校銃乱射事件から20年 「歴史のため」元教師が明かす真実

    コロンバイン高校銃乱射事件から20年。当時の教師は今も、事件の兆候だった出来事と向き合っている。

    20年前の4月。私は、自分が教鞭を取っていた高校から、駐車場をはさんで向かい側にある家の地下室に隠れていた。

    最初の銃声がカフェテリア西側の窓越しに聞こえたあと、生徒たちを導いて、高校からここまで避難させてきた。そして彼らを、なんとか落ち着かせようとしていた。

    私たちは一団となって必死で走り、まずはある教室に入ったが、銃声が近づいてきたように思えたので、外に出て、一番近くにあった家に逃げ込んだ。

    あの午後のことは、私の記憶の中で、トラウマとしか言えない形で焼き付いている。この歴史に、自分がどんなふうに関わったのかを認識した瞬間のことも、よく覚えている。

    その瞬間は、必死の思いで全力疾走して道路を渡ってきたであろう1人の生徒が、呆然と混乱する私たちに合流した時に訪れた。この生徒は、犯人たちは誰なのか知っていた。

    エリック・ハリスとディラン・クレボルド。2人とも私の生徒だった。

    エリックのこともある程度は知っていたが、衝撃だったのは2人目の名前だった。というのも、この数週間前、ディランは悪意に満ちた暴力的な作文を書いていたからだ。その作文は今や歴史の一部であり、どうやって危険の兆候を見極め流べきか、その重要な要素の1つだと考えられている。

    20年が経ったいま、私がこうして手記を発表しているのは、歴史のためだ。コロンバインで何が起こったのか、そしてそれはなぜ起こったのかについて、私たちが経験してきたことが、ここ数年の間に、偽りの情報にすり替えられつつあるからだ。

    日曜の午後、翌日の朝までに採点しなければならない提出物の山と格闘するのは、英語教師としてお決まりの習慣だった。

    初めて例の作文を読んだのも、そんなふうに採点をしている時だった。銃乱射事件から数週間前のその日曜日、私は最高学年のクリエイティブ・ライティングの授業で生徒たちが提出したショートストーリーを丹念にチェックしていた。

    記憶というものは時に、そこで引き起こされた強い感情によって意識に焼き付けられるものだ。そのストーリーの結末を読んで私はたじろぎ、恐怖した。

    ディラン・クレボルドが書いてきたのは、黒い衣に身を包んだ「神のような人物」が、フラタニティ(大学生の社交クラブ。スポーツが得意で立身出世を目指す、米国の高校では”スクールカースト”の上位だった学生が入ることが多い)に入るようなタイプの少年たちを残忍なやり方で銃殺していくというストーリーだったのだ。

    文学を教える教師として、「象徴的な表現」がどういうものか、私は理解している。語り手は、自分が描写しているどぎつい暴力に酔いしれているようだった。

    だが、特に不安をかき立てたのは最後の一節だった。ディランは平然と、その殺人者に対する畏敬と崇拝の念を綴っていたのだ。

    「もし私が神の感情というものを見ることができたとすれば、それはこの男のような姿をしていただろう」とディランは書いていた。

    「彼の顔だけでなくその全身から、彼が発しているパワー、自己満足の念、完結した感じ、敬虔さが感じられた。その男は微笑み、私はその瞬間、彼の行動を自然に理解することができた」

    この提出物の一番下に、私はこう書いた。

    「点数をつける前に、この作文について話をしましょう。あなたは優れた書き手、ストーリーテラーですが、この作品にはいくつか問題点を感じます」

    その問題点が一晩中ずっと心に引っかかっていた私は、翌朝出勤して一番に、ディランを担当しているスクールカウンセラーに電話をした。

    そして留守番電話に、ディランの「提出物」を見せにいく、自分もディランと、気になる点について話してみるつもりだ、というメッセージを残しておいた。

    ところが、いざこの作文のゾッとするような内容やトーンについてディランと話をしてみたとき、この背の高い、ひょろりとした若者は肩をすくめ、「ただの物語です」と言ったのだ。

    けれども、私には単なる物語には思えなかった。担当の授業がない時間になると、すぐに作文のコピーを持ってカウンセラーの元に出向き、自分が懸念していることを伝えた。

    カウンセラーはその後、アセスメントのためにディランを呼んで話をしてくれたのだが、ディランは大学に行くことを計画しているようだ、と思って面談を終えたという。当時はまだ、こうした状況にどう対応すべきかを示す指針がなかったのだ。

    それからしばらくして、ディランの両親と保護者会で話をする機会があった。いつもなら英語科は人数も多いのでカフェテリアを使うのだが、その年は、科学教室の収納庫兼廊下が割り当てられていた。

    ほんの数週間後、この廊下では、同僚のデイブ・サンダースが、おそらくはディランに撃たれて命を落とすことになった。

    サンダースは最初の銃声に気づき、カフェテリアに駆け込んで警告して、私をはじめとする何百人もの命を救ってくれた(デイブは、体を貫通する傷を2箇所に負っていた。廊下には、両犯人の銃からの薬莢が落ちていたため、どちらが彼を殺したのかの特定は不可能だった)。

    小さなデスクを前に座っていると、クレボルド夫妻が私と話をしにやってきた。自分が彼らに対して、まず何を言ったかは、はっきり覚えている。

    私は、「ディランが書いた文章について、お話をしないといけません」と切り出した。ディランが書いたような文章を、それまでほかの生徒が書いてきたことはなかったからだ。

    たしか私は、ディランの書いたものを読んで感じた恐怖を説明するのに、「腹の底から感じる」という言葉を使ったはずだ。2人に対して、ストーリーの内容や、人々を射殺するという気がかりな比喩的表現が使われていること、不穏なトーンなどについて話してきかせた。またコピーを取り、それをディランのスクールカウンセラーに渡したことも伝えた。

    クレボルド氏がすぐに話題を変え、最近のティーンエイジャーについて思索するような、哲学的な議論を始めた時には失望したのを覚えている。彼らが私にもっと質問してこなかったのに驚いたのも覚えている。

    ディランの書いたものについて深く懸念していたし、間違いなく懸念すべきだとも思っていたので、クレボルド夫妻がその保護者会の夜、せめてカウンセラーと話をしてくれないだろうかと思っていたことも覚えている(カウンセラーも保護者会に来ていた)。

    事件後、まだ記憶に新しかったこの時の話を、私は警察機関に伝えた。最初は、避難していた地下室で、まだSWATが学校にいて何もかもが大混乱している時に、地元の警察に話をしたし、後にFBIと州警察にも伝えている。

    こうした私の記憶は、公式文書にそのまま、私の肉筆で書かれている。また、特別捜査官や調査官の言葉でも記されている。

    「(彼女は)また、クレボルドが気がかりな文章を提出してきた件について、クレボルドの両親と長時間にわたって話をしたと証言している。両親はあまり心配していたように見えず、最近の子供たちを理解するのは大変だ、といった発言を残したという」

    真実だけが癒しをもたらす。コロンバインで何が起きたかについて、理解される必要がある。気が進まないながらも、真実のためにはこうするしかないという思いでこの文章を記しているのは、歴史のためだ。

    そして、もっと個人的な思いで言えば、デイブ・サンダースのためであり、重傷を負った私の生徒、アン=マリー・ホックホルターとリチャード・カスタルドのためであり、かつて私がスクールトリップを引率したことのあるローレン・タウンゼントのためであり、1999年4月20日に犠牲になった他のすべての人たちのためだ。

    そして、娘たちのためでもある。娘たちは、あの悲劇を嘆き苦しむ私とともに生き、ディランの母親によって修正された歴史を読み、それを聞いた私の不信と絶望を背負ってくれた。

    その歴史は、20年前に実際に起こったことが書き換えられているだけでなく、語り継がれていく中でも変わっていってしまっている。

    ディランの母親であるクレボルド夫人は、耐え難い状況に耐えてきた。悲しみにくれる母親には同情せざるを得ない。

    だが、事件から10年後の2009年に「Oマガジン」に掲載された記事を読んだ私は、まさかと思った。それは、保護者会で私たちが話した時のことを、彼女の視点から書かれた記事だった。

    そこには私が、あれほど衝撃を受けた「ディランが書いた物語」の内容について、彼女たちに詳しく説明せず、「気がかりだ」と表現しただけだった、と書かれていたのだ。

    また、クレボルド夫人の話では、彼女が私に対して、物語のコピーを要求したのに、私が渡さなかったことになっている。唖然としてしまった。

    私はディランの作文を読んだ瞬間から問題を感じ、すぐにカウンセラーにも渡している。それは間違いなく、私が保護者会で夫妻と話をする前のことだ。コピーだって、もし頼まれていたら必ず渡していたはずだ。

    クレボルド夫人はその後、2016年に出版された回顧録『息子が殺人犯になった――コロンバイン高校銃乱射事件・加害生徒の母の告白』(邦訳:亜紀書房)の中でも、一連の主張をさらに詳しく展開しており、私は再び唖然とした。

    今度は、夫妻が作文そのものを渡すよう要求したのではなく、ストーリーの「詳細を訊ねた」ことになっていた。

    彼女の主張では、私がディランの提出物を「衝撃的」だと言ったものの、それ以上詳しい話はせず、「テーマが陰惨で、酷い言葉が使われている」とだけ伝えたという。

    そして私が、詳しいところを語らなかったのに、ディランの作文のどこが良くないのかの説明として、ショートストーリーにおいて何が適切で何が適切でないかを解説するという奇妙な行動に出た、と書かれている。

    しかも、それを説明するために、まったく別の生徒の、まったく別の作文の内容を例に挙げたというのだ。なおかつ、その「まったく別の生徒」として名が挙げられているのがエリック・ハリス(もうひとりの実行犯)なのだ。

    他の生徒が書いたものについて、私が誰かの親にそんなふうに話をするはずがない。単純に、倫理的問題として考えられないことだ。

    同書にはさらに、夫妻が私に、心配すべき状況かどうか訊ねた、ということがさりげなく示唆されている。それに対して私が、「きちんと対応しているので大丈夫だと思う」と答え、ディランに書き直しを命じたうえで、「元の作文はディランのスクールカウンセラーに見せるつもりだ」と言った、とされているのだ。

    これも、私とスクールカウンセラーどちらもが公式に証言しているように、保護者会の前にすでに私たちが話をしていたという事実と矛盾している。

    また、クレボルド夫人の本では、私が物語に「問題がある」と思ったら、両親に電話する、と約束したとも記されている。しかし、私は最初から問題があると思い、そう伝えてもいる。クレボルド夫人自身の説明でも、私はその時点ですでに、夫妻にそう話をしているのだ。

    これまで私はずっと沈黙を貫いてきたが、深く傷ついていた。私には、嘘をつく理由はない。

    クレボルド夫人の側から書かれた話の中に出てくる、幾分おだやかないくつかの瞬間は、実際にあったことだ。保護者会で、私は夫妻に、ディランの授業で使った小説の話をした。ジョン・アーヴィングの『オウエンのために祈りを』(邦訳:新潮社)。私自身が大好きな本であり、これまで教えたなかでも最も重要な作品だ。

    この本の中で、アーヴィングはこう書いている。「何か大事にしているものがあるなら、それを守らなくちゃいけない」。コロンバインの悲劇から20年が経った今、こうして当時の記憶を書き記しているのは、私は自分の真実を大事にしているし、それを守らなければならないからだ。

    それは、私自身のためでもあるし、歴史的記録のためでもある。私たちは国全体の取り組みとして、こうした恐ろしい銃乱射事件の蔓延をいかに食い止めるかに取り組み続けているのだから。

    私には、犠牲者たちの葬儀に出席した悲しい記憶がある。デイブ・サンダースの葬儀で、「カフェテリアにいた生徒たちを代表して」彼の勇気を遺族に感謝したつらい記憶もある。

    ローレン・タウンセンドの死も嘆いた。彼女は、生徒たちを引率してイギリスを訪れた時に、私が監督していたグループにいた。私は、犠牲になったすべての人たちを悼むとともに、クレボルド夫妻とのやりとりを、深い悲しみをもって思い起こしてきた。

    事件の翌年、私の人文学クラスには、アン=マリー・ホックホルターが車椅子で参加していた。彼女は、あの悲劇の1カ後に母親を自殺で亡くしていた。リチャード・カスタルドも、同じく車椅子でその場にいた。私たちは、ハムレットとモーツァルト、ダンテと舞踏、そして、悲痛な状況を前にしたときの優れた文化的作品について学んだ。

    私は、学校がリチャード用に音声認識コンピューターを注文する手助けをした。クラスの後には、車椅子に座る彼らを目にしたある最上級生が、自分はあの時はちょうど学校にいなかったんだと言って泣くのに付き添った。彼は、もしあの時学校にいれば、自分が立ち向かって、騎士のように戦えたのではないか、と感じていた。私はあの若者を決して忘れはしないし、彼の苦悩も私の記憶に刻まれている。

    その後、私は7年間にわたってコロンバインで教え、生徒たちの力を引き出すと同時に、彼らを励まし続けた。そして、コロンバインでの教師生活が20年を数えたところで退職した。

    あの日に目にした光景によって受けた心の傷は、今も私たち全員の中に残っている。けれども私たちは、ともにその傷を癒してきた。

    「コロンバイン」は今や、ブランドであり、追悼の碑であり、シンボルであり、ひとつの事件であり、動詞であり、比喩であり、レッテルである。

    確かに、あの事件がすべてを変え、学校で銃乱射事件が発生した際の手順に関する議論が始まった。それは、ディランの母親が「脅威の評価」ガイドラインとして語っているものだ。

    私が今こうして手記をしたためているのは、非難をするためではなく、これから先、学校での暴力を研究する人たちのために、別の視点からの見解を提供するためだ。

    そして、真実を守るために書いている。なぜなら「コロンバイン」は、今では歴史の一部だからだ。事件の犠牲になった人たちと、今もあの悲しみの中で生きている人たちに正しく向き合うため、私たちは決して、その現実の一切から目をそらしてはならない。

    手記を書いたジュディス・ケリーは、コロンバイン高校で英語と文学の教師として20年以上教鞭を取っていた。

    この記事は英語から翻訳・編集しました。翻訳:半井明里/ガリレオ、編集:BuzzFeed Japan