ハリウッド初のアジア系アメリカ人女優の苦悩

    差別とステレオタイプに満ちた草創期の映画界を生きた女優の人生を振り返り、映画やTVにみるアジア系の過去と現在を考える。

    *本稿は2014年に刊行されたアン・ヘレン・ピーターセン著『Scandals of Classic Hollywood: Sex, Deviance, and Drama from the Golden Age of American Cinema』(古典期ハリウッドのスキャンダル:アメリカ映画黄金時代の性、逸脱、ドラマ)の増補章として著者が記したものです。キャサリン・ヘプバーンやマーロン・ブランド他についての章はこちら。

    1933年、雑誌「New Movie Magazine」の12月号に、エンターテインメント記者であるグレース・キングスレーが脚本家ドナルド・オグデン・スチュワート主催の仮装パーティに出たときの様子を書いた記事がある。

    当時のハリウッドにおける著名人が集う有名な仮装パーティで、その年は「ハリウッドスターの仮装をする」というのがテーマだった。

    参加者のみごとな仮装ぶりを見るたび、女優フェイ・レイが嬉々としてキングスレーに報告する(「ジャック・ギルバートが『怪僧ラスプーチン』のライオネル・バリモアになってる!」)が、「小柄な中国人女性が踊っている」のを見るとふきだした。

    だが、この「中国人女性」は中国人ではなかった。白人の喜劇女優、ポリー・モーランだ。「私、アンナ・メイ・ウォンよ!」そう言って、両手をひらひらさせながら駆け寄ってくる。「このマニキュア、1ドル半したの!」

    記事に添えられた写真には、アジア人に似せて顔を塗ったモーランの姿がある。肌の色を暗く見せる化粧をほどこし、黒髪のかつらをかぶり、チャイナドレスをまとっている。ウォンのトレードマークだった長くとがらせた爪も見える。

    写真がとらえた顔はいわゆる「中国人的」とされる表情を意識しているのだろう。よく見ると目もとにテープが貼ってあり、アジア人的な顔の特徴を誇張しているのがわかる。

    モーラン自身も、彼女の「仮装」を手がけた人物も、こうしたメイク術(糊として魚の皮がよく使われていた)はおなじみだったのだろう。

    当時、非アジア人女優が特殊メイクをしたうえでアジア人女性の役を演じるのは、ごく一般的だったためだ。そうした主要なアジア人の役は本来、ハリウッド初であり唯一の中国系アメリカ人映画スター、アンナ・メイ・ウォンが演じたかもしれない役だ。だが彼女に役が巡ってきたケースはほとんどなかった。

    他の非白人俳優と同様、アンナ・メイ・ウォンも、ハリウッド社交界への出入りは許されず、スチュワートが開いたパーティにも招かれていなかった。エキゾチックさを強調して彼女に扮した他の白人女優たちと交わる機会もない。

    古典期のハリウッドでは、非アジア人がアジア人を演じるのは問題とされなかっただけでなく、称賛さえされた。記事が取り上げたのはパーティの場だが、ここに書かれた行為からは、当時のハリウッド、ひいてはアメリカ社会全体で一般的だった認識が見てとれる。すなわち、白人が他の人種に扮するのはいいが、非白人が白人になることはほぼありえなかった。

    アンナ・メイ・ウォンがハリウッドを賑わせたのは、例えばクララ・ボウのように数々の男性と浮き名を流したからでもなければ、メイ・ウェストのように当時としては過激で奔放な性観念の持ち主だったからでもない。

    女優としての彼女が受けた中傷や反感は、つきつめれば彼女自身やその言動とはあまり関係がなかった。それよりも、ウォンのようなアジア人女性が女優としてまた一人の女性として、どんな役割を演じるべきかを巡って、ハリウッドとその背後にいる観客たちが醜いまでに頑なであったことによると言える。ウォンにはたくさんの側面があった。

    サイレント映画における準スターであり、ヨーロッパで成功した時の人であり、文化の橋渡しをする顔であり、多くの人にとって中国、アジア、ひいては「東洋」全般を体現すると言っていいもの珍しい存在だった。

    みずから選んだわけではないが、ウォンはそうした役割を演じる立場となり、一般のアメリカ人が「こうあるべき」「こうだろう」と考えるアジア人像、アジア系アメリカ人像に対して、うまく粘り強く立ち向かおうと腐心した。まさに現在に至るまで消えていない壁だ。

    ウォンは1905年、ロサンゼルスのチャイナタウンで生まれた。当時の芸能雑誌の記事は、子ども時代に受けた差別、特に中国系以外の子どもも多くいる地域の小学校での話に触れている。

    ある同級生の男子からは毎日のように針で刺され、ウォンは次第にどんどん厚手の上着を着て対抗した。また男子グループからはおさげ髪を引っ張られて道端で小突かれ、「チンク、チンク、チャイナマン」と蔑称ではやしたてられた。

    そんな子どもたちを「品位に欠ける家」の子とみなす記事もあるにはあったが、この種のエピソードは子ども時代にはよくある試練、として仕立てるのが主流だった。白人スターが子どものころに変わった名前やメガネをからかわれたのとなんら変わらない、というスタンスだ。

    ウォンについて書いた記事は、完全な中国系でありながらアメリカ人であるという二つのアイデンティティを両立させようと努めているのがみてとれる。

    ウォンは中国系の洗濯屋で働いていたが、店はチャイナタウンの外にあった。両親は地域の公立学校が終わった放課後に中国語学校へ行かせようとしたが、ウォンはさぼって映画館へ足を運んだ。黄柳霜という中国名も持っていたが、アメリカ式のアンナ・メイ・ウォンを好んだ。

    両親は「動く写真」に疑いのまなざしを向けていたが(母親はカメラに写真を撮られると魂をとられる、と考えていたようだ)、娘はそんな「旧世界」の迷信にはとらわれなかった。ウォンはあらゆる点で典型的な移民の子であり、生まれ育ったアメリカ文化の行動様式、価値観、言語を両親のルーツである中国文化に取り込んでいたのだ。

    大きくなるにつれて、ウォンはハリウッド映画に魅了されていく。1910年代後半から20年代前半にかけて、チャイナタウンではよく映画の撮影がされていた。中国を表すセットとして使っていたのだが、こうした混同によって、中国系アメリカ人文化と本土の中国文化は別のものだという点をアメリカ人が解するのはさらに難しくなっていた。

    撮影現場であるチャイナタウンを中国の町にある喧騒の通りらしく見せるためには、中国人の顔をした人間が必要だ。ウォンが初めて映画に出たのもそんな需要からだった。

    14歳のとき、アラ・ナジモヴァ監督のサイレント映画『紅燈祭』にエキストラとして出演する。映画に出ていいかと娘に許可を求められた父親は当初、否定的だった。ある記事はこう記す。「もちろん、エキストラで出演した中国娘はそれまでも大勢いたが、あまりよろしくない感じの子も多かった」。

    結局、「尊敬できるきちんとした」中国人男性エキストラたちが近くにいて保護してくれるならという条件で、父親は娘の出演を認めたのだった。

    それから2年間、ウォンは学校へ通いながら何度か小さな役で映画に出たのち、1921年には映画の仕事に注力するため学校をやめる。

    そしてほどなく『蝶々夫人』の翻案、『恋の睡蓮』で初の主役を演じることに。同作はテクニカラー作品(2色式テクニカラー。赤と緑の2原色ながら、それでも一応カラーである)だったこととウォンが好演したことから、映画界に衝撃を与えた。

    ウォンの演技は繊細かつストレートで、眉が語る表情は絶妙だった。よい部分も醜い部分もすべて見透かされた気にさせる鋭いまなざし。トレードマークのひとつである潔く切りそろえた前髪が、完璧なまでに美しく均整の取れた顔立ちに見せる。

    サイレント映画でエキゾチックな役柄をいくつも演じた姿から、観客はウォンがでたらめでなまりのある、「アメリカ的でない」英語を話すに違いないと考えた。しかし実際は、そんな人の目をはっと覚ますような、切れのいい洗練された話しぶりだった。

    同時期の日本人スターである早川雪洲と同じく、ウォンの初期の成功には、サイレント映画に対する需要が世界的に高まっていた事情もある程度影響しているだろう。ただ、ハリウッドにおけるウォン特有の位置づけと、彼女に与えられた偏った種類の人種差別的な役柄について真に理解するには、さらに知っておくべき背景がある。

    一つは西洋が「東洋(オリエント)」を過剰に妖艶なものとしてあこがれる風潮、もう一つは20世紀初めのカリフォルニアで中国系アメリカ人が置かれていた状況だ。

    「オリエンタリズム」とは、かなり広義にいえば、「オクシデント」すなわち西洋社会が、「オリエント」(東洋。アジア大陸全域にまたがる文明と文化)に対してあこがれを抱き、エキゾチシズム(異国趣味)の文脈で扱う包括的な風潮を指す。

    学者グラハム・ハガンはエキゾチシズムを「実際にそこに身を置く人とは距離を置きながら、異なるものの魅力を肯定する行為」と定義しているが、まさに西洋人が望んだのはそこだった。通常は異国情緒を感じさせる歌や詩、絵画などの形で「異なるもの」の趣にふれてみる一方、そこへみずから飛び込んだり深く関わったりすることはない。

    オリエンタリズムの視点で見ると、アジア、中東、アフリカ文化圏に属する人々は、官能的でやや後進的な「東方」という広いくくりにまとめられる。その中身は異教徒や刺激的な香辛料、蛇使い、神秘体験をはじめ、自分たちを優位に置いたありとあらゆるステレオタイプな解釈に満ちている。西洋を強く、男性的で支配的な位置づけとして具体化するためには、東方世界を散漫でわかりにくく、女性的で受動的な存在とみなす必要があった。

    お粗末な思考なのだが、政治的な発言から子ども向けのお話にいたるまで、あらゆる場に浸透していたのだ。『蝶々夫人』も、『ジャングル・ブック』を書いたキップリングの作品も、同書に登場するリッキー・ティッキー・タヴィも、『アラジン』もすべてそうだ。

    アンナ・メイ・ウォンがスターの座にのし上がった1920年代、ヨーロッパで築かれた「大帝国」は軒並み衰退していた。だが、だからこそ、脅かされつつある思想や立場を強化することがますます必要になったのだろう。

    私があたったウォンに関する記事は実に文字どおり例外なく、彼女を性的で妖艶なものとして、またエキゾチックな存在として仕立てている。そして同時に彼女を、その育ちや家族や背負っている文化的な背景を、「アメリカ的」な西洋の慣習とは正反対なものとして位置づけた。これもすべて、そうした時代の背景があるからなのだ。

    ある記事は次のように記す。

    「アンナ・メイ・ウォンは、自身が引く古来の血統が有する永遠のパラドックスを象徴している。ウォンは無慈悲で込み入った策略を思わせる。と同時に、ささやくような中国の子守唄をも想起させる。彼女は映画のスクリーンを通してわれわれに与えてくれるのは、象牙色の肌を持つ人々について知る貴重な機会と、ミステリアスなその色彩である」

    ほぼ完全に白人読者に向けられたこうした論調こそがオリエンタリズムである。ただし、ウォンはアメリカ人であり、通常のオリエンタリズム論はそのままあてはめられない。そのため、記事は議論の方向性を微妙に操りながら彼女を論じなければならなかった。彼らにとっては、ウォンがどういうわけか、信じがたくもアメリカ人であると同時に中国人だったからだ。

    ウォンはまた、多くの人が中国系アメリカ人と結びつけてきたイメージとも相反していた。少なくとも19世紀後半から20世紀初頭にかけての中国系アメリカ人社会は、隔離されていてよく知り得ない、おまけにほぼ男性しかいない、自分たちの社会とは異なる異文化の集団とみなされていた。このような見方をされた背景はまた複雑だ。

    中国人労働者が最初にアメリカへ渡った19世紀中頃、金を稼ぐためにやってきたのは男たちで、女性の多くは国内に残った。1875年、移民を制限するページ法が制定されると、わずかでも「不道徳な人格や高潔さの欠如」が疑われる中国人女性はアメリカへの入国が禁じられ、男女比の偏りはさらに進んだ。

    こうして男性ばかりの集団をなしていた中国の移民社会は、アメリカ人が考える共同体の姿とは相容れなかったため、社会的にも法的にもすぐに非難と排斥の対象となった。

    中国からの移民を禁じる目的で1882年に「中国人排斥法」が制定されたが、その根底にあったのは、中国人という民族は不道徳で不健全であり、アメリカ式の生活様式とアメリカ人労働力に対する明らかな脅威であるとする主張だった(21世紀の今繰り広げられている、移民に関する議論で耳にする主張と似ていることにお気づきだろう)。

    以上が1920年代前半、ウォンが直面していた体系的な人種差別を取り巻く状況だった。そんな中、ヒロインとして出演した『恋の睡蓮』でウォンが見せた光る素質にハリウッドの注目が集まる。当時、ハリウッドに君臨するスターだったダグラス・フェアバンクスもその一人だった。

    フェアバンクスといえば今ならトム・クルーズとブラッド・ピットを合わせて冒険活劇風の口ひげを足したような存在だ。自身が出演する『バグダッドの盗賊』の狡猾なモンゴル人奴隷役を探していたフェアバンクスは、すぐさまウォンの起用を決めた。

    ウォンが起用された二つの役の共通点は何か。

    『恋の睡蓮』で演じた中国娘「ロータスフラワー(蓮花)」は、白人男性と恋に落ち、二人は思いを通わせ合うものの、最終的に男性は彼女の元を去ってゆく。『バグダッドの盗賊』で演じた「策略をたくらむ召使」は、男らしく威勢のいい主人公と王女(イスラムの王朝を治めるカリフの娘。だがなぜか白人が演じる)が結ばれるのを阻止しようとする役どころ。

    つまり、一つは愛を成就できず敗れて犠牲となる女性、もう一つは白人女性の恋を邪魔する悪の妖婦だった。ウォンはその後20年にわたり、この二つの役を民族や時代設定、話のプロットを多少変えながら繰り返し演じることになる。

    いつも犠牲者か悪女、それも多くの場合、キャラクターの掘り下げ方いう点で、中国系としての特性も薄く、白人共演者の役が備える深さやカリスマ性、価値などを感じさせる要素にも乏しい役ばかりが回されたのだ。

    与えられる役はそんな調子だったが、映画雑誌は好んでウォンを取り上げた。黒人俳優がもっと屈辱的な端役に回されるか、黒人コミュニティの映画館だけで上映される黒人向け映画の世界に追いやられたのとは異なる。

    アメリカがたどってきた人種の歴史や、オリエンタリズムが東洋の人々と文化をゆがんだ形で持ち上げてきた背景などが複雑にからみあった結果、当時の雑誌がウォンの人物像を書き、写真を載せ、アメリカ市民にその存在を紹介することはよしとされたのだった。ただし、表紙に載ることはなかった。

    こうした記事からは、アメリカ人であり中国人でもある映画スターという位置づけを、多くの違和感を含む形で両立させようとしているのがわかる。

    例えば、ウォンが中国系であることについては次のように書く。

    アンナ・メイ・ウォンは頭から爪先まで中国人だ。その黒髪は長江のほとりに住む乙女がたたえる黒髪と同じである。深いブラウンの目は、そこまで顕著なつり目ではないものの、いかにも東洋的だ。

    といっても、彼女は完全にアメリカ人でもある。

    そんなはずはないと思うかもしれない。でも事実そうなのだ。アンナ・メイ・ウォンはアメリカ人の中にいればどこをとってもわれわれと同じくアメリカ人であり、東洋人としての背景は完全に消える。

    いや、でもやはり中国人なんですよ。

    彼女は金柑と同じくらい、睡蓮と同じくらい中国的だ。何世紀もの歴史を背負うかたわら、現代の人でもある。映画になっても、彼女の丸顔がたたえる静穏さに波が立つことはない。

    いや、でもアメリカ人なんですってば。

    アンナ・メイ・ウォンは中国を訪れたこともないのだ。これはあなたも知っておいていい。さらには、ニューヨークのチャイナタウンだってタクシーから見たことがあるだけだし、中国服だって着ていない。英語も申し分ない。彼女の言葉は才気にあふれ、今どきの現代娘たちもうらやむだろう。ユーモアのセンスも完全にアメリカ的だ。私とランチをともにしたときも彼女は米を食べなかったし、お茶でなくコーヒーを頼んでウェイターを感心させた。

    いや、でもこんな詩がある。どこをどう取っても中国人ではないか。

    こんな調子であれば、記事での扱われ方にも、演じる役柄がないこと、とりわけ深みのある役柄がもらえないことにも、ウォンが次第にうんざりしたのは想像に難くない。

    また、映画にアジア人役が登場するときも、監督がアジア人以外の演じ手、ラテン系や東欧系、アイルランド系などを採用してアジア人を演じさせ、これにもウォンが失望したのはもっともだ。

    1928年、渡欧する機会が巡ってきたとき、ウォンは行動に移す。ヨーロッパなら、そこまで異国趣味に終始せず映画に出られるかもしれない。共演する白人の役者たちと普通に話したり出かけたりできるかもしれない。もしかしたらロマンスさえ望めるかもしれない。それまでは、少なくとも人目につく形では決してかなわない現実だった。

    ベルリンを拠点にしたウォンはいくつかの映画に主演級の扱いで出ただけなく、その美しさも称えられた。ドイツの女性映画監督レニ・リーフェンシュタールと交流し、マレーネ・ディートリヒと親交を結んだ。同性愛をほのめかすようなうわさが立ったこともあった。

    イギリス映画に5作出演し、白人共演者とのキスシーンこそなかったが、魅力を花開かせるチャンスを手にする。中でも、サイレント映画としては最後の出演作となった1929年の『ピカデリー』での演技は、彼女のキャリアの中でも最高峰として広く評価されている。

    ヨーロッパでは各地で明らかにウォンの人気に乗った動きが相次いだ。イギリスの作曲家コンスタント・ランバートは「Eight Poems of Li Po」と題した曲を書き、ウォンに捧げた。脚本や詞を書いていたイギリスのエリック・マシュウィッツは、ロマンスがうわさされたウォンとの別れを受けて「These Foolish Things (Remind Me of You)」を書いた。

    欧州からアメリカへ帰国する際、ウォンは次のように述べている。

    「みなさんすばらしい反応をくれました。自分がしたことに対して、海の向こうで称賛を受け、自分自身を愛してもらえる。それによって私はアジア人という人種の象徴ではなく、一人の人間でいられたんです」

    ヨーロッパで出演した映画がウォンを「アジア人の象徴」として扱わなかったのかという点には疑問符がつくが、彼女が黒人スターの草分けであるジョセフィン・ベイカーや作家ネラ・ラーセン、同じくアフリカ系作家のラングストン・ヒューズらと同じく、アメリカでは決してかなわなかった形で称賛されたのは確かな事実である。

    ウォンがヨーロッパで活躍した時期にゴシップ記事を書いていたアメリカのあるコラムニストは、ウォンが当地で「気高さを称えられ」「人気者として注目を集め」、「王子や王たちまでもが彼女に心奪われたという逸話もある」と書いている。

    こうした崇拝ぶりには、少なくとも部分的には自己満足がある。人種差別的で愚かなアメリカ人などよりも、洗練されたヨーロッパ人である自分たちの方がこれだけ進んでいる、と見せつけたのだ。

    だが実際には、当地のスターが夕食会で同じテーブルについたり、頬を寄せ合って踊ったりする一方で、ハリウッドのそれと同じような論調で彼女を祭り上げているのも現実だった。

    1931年、ウォンはパラマウントから出演の話を受け、ハリウッドへ戻る。パラマウントは当時、光る才能をヨーロッパから引き抜くのに熱心で、重要な役どころを用意すると約束してウォンを誘ったのだった。

    『龍の娘』ではまた以前と同じような悪女役での出演を承諾したが、そうすればその後の『上海特急』でもっといい役を得、マレーネ・デートリッヒとも共演できるチャンスにつながるからだった。

    宣伝のため、ウォンのエキゾチックなイメージをさらに前面に押し出そうとする映画会社の思惑を甘んじて受け入れた形になる。

    1932年1月に出た雑誌記事は「孤独な睡蓮」と題し、オリエンタリズムを誇張する書きぶりがうかがえる。

    洗練された東洋女性である彼女はお付き合いする相手としては理想的だ。(略)思慮深いその存在は、パーティだのスポーツだのを喜ぶアメリカ娘に疲れた男性に安らぎをくれる。目上の者を立てて喜ばせ、言うことを聞いてくれる。芯に備える知性に触れた男性は、驚きをもって魅了されるだろう。

    そしてこう続ける(読む限り、ウォン自身の発言らしい)。

    「おおかた、私はアメリカ女性よりもずっと騎士道精神になじむんです。私は男性に奉仕していただきますから。男性はこう言います。現代女性は何でも自分でやりすぎる、男が女性のために何かしたくてもさせてくれない、と。私は生来、男性に頼るようにできているんです」

    しかしこうも書く。

    愛、忍耐、奉仕を尊ぶウォンの信条は、古きと新しきを融合させて自身が育んだものだ。ウォンはそれを生のリズムと呼ぶ。そしてこんなふうによく言う。「よいことはすべてうまく回ってくれるんです。心静かに瞑想を行い、完璧な言葉にする、という点をかなえれば」

    ここで、この時代から80年以上の時を経た現代の私たちは考えてみるべきだろう。これはいったい何なのか。誰がこうした文章を書いているのか。ウォンが実際にそう言ったのだろうか。当時の芸能雑誌に書かれた多くの記事と同様、『上海特急』の封切りを前にした製作会社の広報が彼女のイメージを「ハリウッドスターの中国系代表」として演出するねらいだったのか。

    そういう面はあっただろう。『上海特急』の娼婦役は、いろんな意味で典型的な「主人公の非白人の親友」だった。

    黙っていてもしたたかさのにじみ出るみごとな表情に、一瞥すれば男を黙らせる目力を備えた役どころだったのだ。その功績は、言うまでもなく、観客の視線を多少なりともディートリヒの妖艶な表情以外の何かに向けさせたことにある。

    さらには、ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督のもと、ドイツ表現主義らしい照明を存分に活かしてその姿がとらえられている。ウォンとディートリヒを見るだけでいい作品。まさに威厳がある。

    だが、ディートリヒとの親交はディートリヒ級の役とは違った。『上海特急』は成功を収め、アカデミーの作品賞と監督賞にノミネートもされたが、それでもウォンの活躍の場は広がらなかった。

    製作会社MGMが『散り行く魂(The Son-Daughter)』の主役となる中国人のリン・ファ役を選ぶ際も、ウォンは「中国的すぎる」と却下され、どこからどう見ても白人のヘレン・ヘイズが選ばれている。

    白人がアジア人に扮する「イエローフェイス」は、黒人に扮する「ブラックフェイス」、ネイティブアメリカンに扮する「レッドフェイス」と並んで、当時のハリウッドでは完全に当たり前のようにされていた。

    ヘイズが中国人を演じたのも、そうした無数の例の一つにすぎない。イエローフェイスはどこにでもあった。映画でも、仮装パーティでも、芸能雑誌でも。右上の記事では、ロレッタ・ヤングがアジア人に扮する様子を取り上げている。

    そんな中、ウォンは再び渡欧し、イギリスやスコットランドを回って小規模な作品に何本か出演(うち1本は主演の白人男優とのキスシーンがあった)、ハリウッドのような不満のない生活を享受する。

    やがて1935年、MGMはパール・バックの小説『大地』の映画化に向け、配役の検討を始める。原作は今でいうダン・ブラウン作品とハリー・ポッターを合わせたくらいのベストセラーで、バックはこの作品でピュリッツァー賞を受賞した。

    パール・バックは宣教師の娘として中国で育ったため、中国での体験をベースにした描写は、たとえ完璧ではないにしても他の作品と比べるとかなり進んでいた。内容の複雑さ、好感の持てる登場人物、白人が中国を語る場合にありがちな手法を全体としてはねつけた点などが挙げられる。つまり、ウォンにとっては理想的な作品だったのだ。

    だが結局、そのせいで役を得ることはできなかった。

    状況を整理しておこう。

    MGMは中国を舞台にした話題作を撮ろうとしていた。中国人家族を描いたストーリーで、主役の男女二人はともに中国人だ。ハリウッドには実績のある中国人女優が一人いた。演技もできる。そういう状況で、オーストリア生まれのポール・ムニを主演俳優に、ドイツ出身のルイーゼ・ライナーを主演女優に抜擢するのは、MGMとしては何もおかしくない、筋の通った理屈だったのだ。

    残念賞的な位置づけで、製作側はウォンに茶屋の妖艶な女、蓮華役を打診する。良心のある主人公の妾になる役どころだ。

    だがウォンは断った。次のようなコメントが残っている。「登場人物がすべて中国人の映画を、他は全員アメリカ人のキャストで揃えた上で、唯一共感の呼べない役柄を中国人の血が流れている私にやらないかと言っているわけです」。ウォンはこのオファーを侮辱と受け取った。事実、明白にそうだった。

    ウォンはヨーロッパへは戻らず、自分が「中国人的すぎる」というのなら、これまで訪ねたことのない中国へ実際に行って確かめてみようと考える。当初、中国系メディアは批判的だった。

    ハリウッド映画が描く中国像、中国人像に彼らが憤るのはもっともで、そうしたとらえ方をする映画にたびたび出ることで偏ったイメージに加担しているとしてウォンを非難した。それでもウォンは理性的だったといえる。

    中国側がステレオタイプに憤るのは当然であることも、自分は演じる役柄について意見できる立場になく、ある方向性に従って役を演じさせられるだけであることも、「悪女」キャラクターを演じるのにほとほとうんざりしていることも、すべてわかっていたのだ。

    中国の都市や地方を回ったウォンはいたく好意的に迎えられた。アメリカの中国語新聞チャイナ・プレスの当時の記事は、ウォンが美しく魅力的で、まだ映画産業などなかった中国の人々が(たとえゆがめられていても)自分たちの姿をスクリーンに投影できるもっとも身近な存在として受け止められたことがうかがえる。

    1930年代後半にハリウッドへ戻ったウォンは、いよいよ失望を隠せなくなった。取材を受ける中で映画界への批判を辞さず、枠に押し込められるようなアメリカでの日々を赤裸々に語った。

    ある批評家にはこんな思いを打ち明けている。

    「恋愛については軽々しく口に出すことなどできません。自分がその人に魅かれつつあると感じたら、愛に変わる前に自分でストップをかけます」

    ひどい話である。だがこれがウォンの人生のもう一つの現実だった。これよりかなり前の本人の告白によると、少なくとも男性と人前へ出ることはでき、それで恋人同士とみなされるようなことはなかったという。

    「西洋社会で生きる東洋の女性にとって、人生は特有の困難があります。相手の男性か自分のどちらかが傷つくのを恐れて、すばらしい友情を何度も犠牲にしてきました」

    ウォンが白人男性と付き合うのは不可能で、たとえ彼女と恋に落ちようと覚悟を決めた男性が現れたとしても、そうなれば自分も相手も仕事を失うのをウォンはわかっていた。例外は、相手も中国人であるときだけだ。

    ウォンの恋愛について聞きたがる人は絶えなかったが、ハリウッドになじみきれず孤高の立場にあった彼女にとって、その答えは存在せず、あるのは孤独や悲しみだった。自身にとって幸福とは何かと聞かれたウォンが「本とともに一人で過ごす時間。物質的なものではなく、賢明さ」と答えているのもうなずける。

    40年代から50年代にかけて女優としての仕事が先細りしていく中、ウォンはそんな一人の世界に近いものを手に入れる。

    サイレント映画や草創期の映画俳優の多くがそうだったように、ウォンもこれまでに作られたわかりやすいエキゾチックなイメージを売りに、誕生して間もないテレビ放送に進出した。年を重ねた往年のスターに求められる場といえば、彼女が長年苦々しく思ってきた表面的なイメージを前面に出す以外になかったのだ。

    事実、アンナ・メイ・ウォンは、私がこれまで取り上げてきた数々の偉大なスターと並ぶほどの存在ではない。だが、彼女が歩んだ人生は語り継ぐに値する。

    それは偉大なスターだったからではなく、大成することなく終わったそのキャリアにある。ハリウッドが彼女のような可能性を秘めた才あるスターを活かせなかったという側面は、その世界を支配し成功したスターについて知るのと同じように、ハリウッドとその背後にいるファンの姿を物語っているからだ。

    それから80年余り、世界はどれだけ変わったのだろうか。メジャーなTVや映画にアジア系の登場人物がレギュラー出演するようになったのは、多少前後するとしてもここ15年ほどにすぎない。

    TVドラマ「グレイズ・アナトミー」(クリスティーナ・ヤン役にサンドラ・オー)のように人種とは無関係に配役を決めたものもあれば、登場人物が恋人同士や夫婦の設定(「LOST」に韓国人夫婦役で出演したサン役のキム・ユンジン、ジン役のダニエル・デイ・キム)、さらにはアジア人以外を相手に好きになったり結ばれたりする設定も許されている。

    例えば『ハリー・ポッター』のチョウ・チャン(ケイティ・ラング)、「ギルモア・ガールズ」のレーン・キム(ケイコ・アジェナ)、『ワイルド・スピード』シリーズのハン(サン・カン)、「プリティ・リトル・ライアーズ」エミリー・フィールズ(シェイ・ミッチェル)などがこれにあてはまる。

    今、アジア系俳優の活躍の場は広がっている。とりわけ、若い世代を中心にニッチなジャンルの番組を提供するThe CWのようなTV局ではそれが顕著だ。ジョン・チョウが重要な役どころを演じる「セルフィ」、台湾にルーツを持つ家族を描き主要キャストのほとんどがアジア系の「フアン家のアメリカ開拓記(原題:Fresh Off the Boat)」も注目に値する。

    いまや世界の映画興行収入を中国がリードする時代なのにもかかわらず、ステレオタイプなとらえ方が今もなおいかに根強く有害かには驚かされる。

    アクション映画の場合、白人の主演俳優ならヒロインと寝るところまでいくのに、アジア人が主役の場合はハグ止まりだったりする。

    『ハングオーバー!』シリーズから『ピッチ・パーフェクト』まで、さまざまな映画でアジア系の役柄はジョークのオチのような位置づけで、安っぽいお手軽な笑いをとるための非常に侮辱的な紋切り型を押しつけられている。

    ルーシー・リューはハリウッド唯一のメジャーなアジア系スターといっていいが、ここしばらくはアニメ映画『カンフー・パンダ』の声優としての出演や、TVドラマ「エレメンタリー ホームズ&ワトソンin NY」のジョーン・ワトソンといった、やや格下げとも思える仕事にシフトしている。

    アンナ・メイ・ウォンも、アフリカ系のドロシー・ダンドリッジ、メキシコ出身のドロレス・デル・リオやルーペ・ヴェレス、早川雪洲、アフリカ系のポール・ロブソン、ボー・ジャングルも、道を切り開いたパイオニアとして称えるべき先人たちだ。

    苦しい状況の中で厳しい要求の仕事をこなし、後に続く者がスターダムへの道をより自由に歩けるよう地ならしをした。そうなると、現代のハリウッドが恥ずべきは、スターを目指す非白人の卵たち一人ひとりが同じ道を改めて切り開かなくてはいけない今の現実だ。

    彼らもまた、人種にまつわる一般化された論理という、今もハリウッドを動かすロジックとの終わりの見えない戦いを余儀なくされているのだから。

    『Scandals of Classic Hollywood: Sex, Deviance, and
    Drama from the Golden Age of American Cinema』はこちら

    この記事は英語から翻訳・編集しました。翻訳:石垣賀子 / 編集:BuzzFeed Japan