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「カミングアウトへのこだわり」を超え始めたクィア映画たち

『ある少年の告白』から『Love, サイモン 17歳の告白』まで、自分のセクシュアリティを受け入れられない10代のLGBTを主人公にした映画が次々と公開された。しかしクィアの人生とは、カミングアウトで完結するわけではない。

2018年11月、クィアが主人公を務める注目映画2作品が公開された。ロックバンド「クイーン」のリードボーカル、フレディ・マーキュリーをラミ・マレックが演じた『ボヘミアン・ラプソディ』と、ルーカス・ヘッジズが主役を演じる『ある少年の告白』(日本公開は4月19日)だ。主人公は10代の少年で、両親にゲイだと告白した後、転向療法を受けることになる。

どちらの作品も実話に基づいており、どちらも、力強い演技を理由に、賞を狙うことも可能だと評価された。2018年はこのほかにも『Love, サイモン 17歳の告白』(日本では9月にデジタル公開)、『アレックス・ストレンジラブ』(6月にNetflixで公開)など、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアルを主人公にした名作がめじろ押しで、小規模だが重要な波が到来した感がある。

これらの作品もそうだが、『ある少年の告白』と『ボヘミアン・ラプソディ』の登場人物たちも、いら立たしいほどクローゼットに閉じ込められている(訳注:「カミングアウトをしていない」の比喩的表現)。

もちろんカミングアウトは、LGBTの人すべてが何らかの形で直面するものだし、本質的にドラマチックなことが多い。涙を流しながら愛する人と魂をぶつけ合う長く暗い夜だったり、幸せな自己発見や、つらい自己不信の瞬間だったりする。いずれにせよ、長編映画の素材としては最高だ。映画制作者がクィアの物語をやみくもにつくろうとするとき、LGBT、特にクィアの10代がカミングアウトと向き合う姿を追いたくなるのは理解できる。

そしてもちろん、2018年に公開された10代のクィアのカミングアウト映画はすべて、共感と思いやりを持ってこの題材を扱っており、それぞれ感動的な物語に仕上がっている。ただし、カミングアウトというテーマに執着しているため、クィアの物語は自己受容で終わるという認識を強める結果となっている。現実には、自己受容は始まりにすぎない。

公平な立場で言えば、クィア映画の創成期から、カミングアウトは中心的テーマを担ってきた。1982年の『メーキング・ラブ』、1998年の『ハイ・アート』、2016年の『ムーンライト』がその好例だ。

カミングアウトは危険な行為だという長年の共通認識があり、だからこそ、これらの映画には緊張感がある。アメリカは根本的にLGBTへの敵意に満ちているという現実に根差した認識だ。2005年の『ブロークバック・マウンテン』でイニスとジャックの愛が壊れたのも、1999年の『ボーイズ・ドント・クライ』で、トランスジェンダーの男性として生きるというブランドン・ティーナの決意が危険に感じられたのもそのためだ。

ただし、現在のアメリカでは間違いなく、クィアの若者がカミングアウトすることへの敵意は薄れてきている。GLSENの「全米学校風土調査2017年版」によれば、LGBTの生徒に対する言葉での嫌がらせ、身体的な嫌がらせ、暴行はすべて、2001年から2017年の間に大幅に減少している。

さまざまな性的指向の生徒が語り合い、互いに学ぶクラブ活動「ゲイ・ストレート・アライアンス」(GSA)がある学校も、2001年にはわずか10%余りだったが、2017年には60%近くに達した。もちろん今でも、一部のLGBT、特にトランスジェンダーや、性別に適合しない若者は、自分を受け入れることやクローゼットから出ることにとても苦労している(クローゼットに「入る」という選択肢がある場合は、だが)。しかし、LGBTに対するアメリカの態度が変化しているにもかかわらず、長編映画に登場するLGBTの10代たちは、カミングアウトという1つの体験にとらわれたままであり、クィアとしての人生の全体像が描かれていない。

クローゼットへの執着はまた、カミングアウトの物語を伝える上での障害にもなっている。主人公は平凡な日常を送っているように見えるが、どうすれば、その主人公の大きな悩みに説得力を持たせることができるのだろう?

『ある少年の告白』と『ミスエデュケーション』(日本では2019年2月DVD発売)は、この問題への対策として、「転向療法」に焦点を当てている。自分の性を受け入れられないクィアの若者にとって、おそらくは最も有害な壁となるものだ。アメリカではいまだに、LGBTの68%が、未成年の「脱ゲイ」プログラムが認められている州に暮らしている。脱ゲイプログラムでは危険な嘘が教え込まれる。生まれつきの性的欲求が異性愛でなくても、永久に抑制するか、完全に排除することができるという嘘だ。

この30年の間に社会は、クィアの若者が安全にカミングアウトできる方向へとシフトしてきたが、脱ゲイプログラムは今も存在している。これらは、時代錯誤なものとして注視していくべきだ。クィアの若者をクローゼットに閉じ込める自己不信や自己嫌悪を映画で描きたいのであれば、脱ゲイプログラムに勝る舞台設定はない。

しかし残念ながら、どちらの映画でも、これらは十分に描かれていない。まず、どちらも時代設定が現在ではない。『ある少年の告白』は2000年代半ば。原作となった自伝の著者であるガラルド・コンリーが19歳のとき、「ラブ・イン・アクション」という脱ゲイプログラムを受けた実体験に基づいている。『ミスエデュケーション』は1990年代前半の物語。原作者エミリー・M・ダンフォースによる小説の時代設定と基本的に同じだ。

どちらのケースも、時代設定にはある程度、納得できる。『ある少年の告白』は、主人公の名前をジャレッド・イーモンズに変えるなど、少し脚色を加えているが、コンリーが実際に体験したことの重要な輪郭は維持されている。『ミスエデュケーション』で描かれている1990年代前半は、まだインターネットが普及しておらず、当時の10代だからこそ感じた完全な孤独が巧みに利用されている。

しかし、これらはどちらも、結局のところは、映画制作者が芸術的な面から決断したものだ。時代設定を過去にしたことが、転向療法は過去の問題だと示唆することにつながっている。その結果、切迫感が消え、映画の中の出来事に距離を感じてしまう(ただし、『ある少年の告白』はインタータイトルで、現在も36州で、未成年の脱ゲイプログラムが認められていると伝えている)。

時代設定の問題は、主人公、ひいては映画を観る人が、転向療法がもたらし得るダメージの重みをきちんと経験すれば、それほど大きな問題にならないかもしれない。『ある少年の告白』の主人公ジャレッドは、バプテスト教会の牧師(ラッセル・クロウ)の息子であり、自身も信仰に身をささげてきた。「男に惹かれてしまう」という簡潔な言葉で両親にカミングアウトしたとき、ジャレッドはその事実を罪深い短所と捉え、なんとか矯正しようと努力し、結局クローゼットに閉じこもってしまう。

両親が息子をラブ・イン・アクションに入所させると決断させたあと、ジャレッドは、自己否定を強いる脱ゲイプログラムに懸命に耐えるのだろうと私たちは予想する。原題の『Boy Erased(消された少年)』も、それを暗示している。ところが間もなく、ジャレッドはとても冷静であり、プログラム責任者のビクター・サイクス(監督、脚本を担当したジョエル・エドガートンが演じる)に従うことはないことが明らかになる。ラブ・イン・アクションの資料に「神(god)」が「犬(dog)」と書かれたスペルミスを見つけた直後、ジャレッドは嘘発見器を発動させ、冷静な行動を開始したのだ。

ジャレッドはその後、彼の周囲にいる登場人物たちを観客が知るためのパイプ役となる。その大部分が、青白いうつろな表情をした若い男女たちだ。ジョン(ゲイの映画制作者グザビエ・ドランが演じる)は狂信者で、ジャレッドに対してすべてをささげるよう求める。対照的に、ゲイリー(ゲイのポップスター、トロイ・シバンが演じる)はジャレッドに対して、ビクターには彼が聞きたがる言葉を伝えて、やりすごすべきだと助言する。

ジャレッドは特に、キャメロン(ブリットン・シアー)に惹かれる。物静かな少年で、最も虐げられている入所者だ。転向療法が「前進」しないため、ビクターは、奇妙で絶望的な偽の葬式を行う。

ジャレッドはラブ・イン・アクションにそれほど長くとどまらず、ほかの入所者とジャレッド、そして私たちの距離が近くなることもないが、これを言うことは本当の意味でのネタバレではない。カミングアウト映画ではよくあることだが、ジャレッドと父親、母親(ニコール・キッドマン)の複雑な関係のほうに、はるかに多くの時間が割かれているためだ。この映画で本当に変化を遂げるのは、ジャレッドの両親だ。このままでは息子が駄目になると気付き、カミングアウト映画には欠かせない、涙まじりの非難と後悔という感動的なシーンへと続く。

一方この映画は、ジャレッドが自らのセクシュアリティとどういう関係を結ぶのかを説明することにはほとんど時間を割いていない。ジャレッドにとって、初めての男性との性体験は大学での性的暴行だ。相手は友人で、この友人もその後、両親にカミングアウトする。しかし、この体験が男性とのセックスに関する感情を形成したことについて、ジャレッドが気持ちを整理する様子を見ることはできない。その代わり、私たちは幾度となく、ジャレッドが大学時代、ひょろっとした地元のアーティストと過ごした一夜の、斜めから撮影した映像を見せられる。単に抱き合っているように見える映像がほとんどだ。

これに対して、『ミスエデュケーション』の名目上の主人公は、自分のセクシュアリティを探求することに多くの時間を費やしている。キャメロン(クロエ・グレース・モレッツ)は、車の後部座席で親友のコーリー(クイン・シェパード)とセックスしているところをプロムのパートナーに見られた後、カミングアウトする。キャメロンとコーリーが情熱的に愛し合う回想シーンが何度か挿入されている。

転向療法施設「神の約束」に入所してからも、キャメロンは女性教員とキスする夢を見る。ルームメイトのエリン(エミリー・スケッグズ)もキャメロンに強い恋心を抱く。ある夜、エロチックな夢を見ているキャメロンをエリンが起こし、2人は服を着たまま不器用なセックスをする。

しかしキャメロンは、自分の欲望をよく理解できていない。「神の約束」の所長リディア・マーシュ博士(ジェニファー・イーリー)は、こうした思春期特有の不安定さにつけ込む。キャメロンがコーリーの素晴らしさについて熱く語ると、マーシュ博士は、「人食い人種は、尊敬する敵しか食べないと言われている」と冷たく言い放つ。これはキャメロンに、自分は本当はコーリーのようになりたいのであり、そうした気持ちを、一緒にいたい気持ちと「混同」したのだと結論づけさせ、思春期における恋愛の基本原則だとは気付かせないための発言だ。

そのほかにも、少しずつダメージを与えていく転向療法の戦術がうまく織り交ぜられており、転向療法がどのように効果を発揮し、キャメロンをむしばんでいくかを私たちは目の当たりにする。ただし、ほかのカミングアウト映画と同様、自己受容の瞬間に、「神の約束」施設での旅は終わりを迎えるため、結局、キャメロンは施設での出来事からあまり影響を受けない。『ある少年の告白』のジャレッドと全く同じだ。

『ミスエデュケーション』では、キャメロン以外にも、転向療法の大きなダメージに耐える入所者が描かれている。キャメロンとはほとんど面識のない、繊細で、か弱い少年だ。父親に帰宅を拒絶されて落ち込み、その夜、自分の体を傷つけ、病院に送られる。ただし、すべてはスクリーンの外での出来事だ。すべてが終わった後、キャメロンは血だらけの浴室を目撃する。彼女はその直後、不確かだがはるかに自由な未来のために施設を出る。

これらの映画を見た私たちは、ジャレッドもキャメロンも、複雑で面白い大人に成長するだろうという印象を持つ。ただし、それはあくまで印象だ。どちらの映画も、脱ゲイプログラムの運営者の多くは、自らも実はクィアで、自分のセクシュアリティを抑え込み、子供たちの成長途上の心に、自身の内なる悪魔を投影しているのだと強調している。しかし、その事実をさらに掘り下げることはない。

どちらの作品も、LGBTが自分を受け入れるために闘う姿を描いた、混乱した作品だ。そして、その混乱が示唆しているのは、結局、闘いは永遠に続くということだ。償い、カミングアウト、大人になる過程の物語を、はるかに緊迫した環境に押し込もうとした結果、どちらの作品も、すべてが中途半端になっている。

『Love, サイモン 17歳の告白』と『アレックス・ストレンジラブ』の主人公であり、タイトルにもなっている10代のゲイたち(サイモンとアレックス)が直面する困難は、『ある少年の告白』や『ミスエデュケーション』の登場人物たちが突き当たる壁の悲痛さと比べれば可愛いものだ。しかしそのせいで、それぞれの映画制作者の前には、いっそう手ごわい課題が立ちはだかっている。

『Love, サイモン 17歳の告白』と『アレックス・ストレンジラブ』の主人公である少年たちは、クローゼットに閉じ込められた10代ではあるものの、現代に生きる成績優秀な白人で、愛情あふれる家族と、支えてくれる友人たちがいる。最近のティーン映画でよく見られる、魅力的な心地よさと同調していて、それは、いまどきの白人ゲイ男性が以前と比べてそれほど絶望的な現実に直面していないことを反映しているのかもしれない。

しかしそれはまた、現代のオーディエンスに映画館まで足を運んでもらって、ゲイの若者がいつどうカミングアウトするかというジレンマを描いた映画を見てもらいたいと思う制作者側は、もっと努力しなければならないということも意味している。

『Love, サイモン 17歳の告白』では、そうしたジレンマを解消するために、正体不明の恋愛相手や、主人公を脅迫する同級生など、ティーン映画によくある常套手段を使っている。原作は、ベッキー・アルバータリが2015年に刊行した小説『サイモンvs人類平等化計画』(邦訳:岩波書店)だ。主人公のサイモン・スピア(ニック・ロビンソン)は、ゲイだという自覚はあるものの、まだ誰にもそれを打ち明けていない。しかし、同じくクローゼットに閉じ込められた匿名のメル友とやりとりをするうちに恋に落ちてしまい、相手の正体を突き止めようと動き出す

そんななか、メールの履歴を読んだマーティン(ローガン・ミラー)から脅迫され、友人アビー(アレクサンドラ・シップ)との仲を取り持つように迫られる。最後には、公衆の面前でアビーにふられてしまったマーティンによって、「サイモンはゲイだ」と学校全体に暴露され、友人たちと気まずくなってしまう。

ゲイの若者を主人公にした10代のラブストーリーが、ストレートの若者を主人公にした過去のラブロマンス映画のように、お気楽などんでん返しや、心温まる結末というプロットを織り交ぜて描かれるのを見ていると、とても心が休まるところはある。しかしそうしたプロットを、「サイモンを閉じ込めるクローゼット」というポイントと結びつけることは、サイモンが初めからカミングアウトしていた場合にはどれも効果がなくなることを意味する。サイモンがゲイだという事実は解放的なものになり、矮小化されるのだ。ゲイの若者であることは明確だが、事実上それだけが、映画にとって重要な、この若者に関する「唯一の」特徴になってしまう。

この作品では、そういうことを裏付けるかのように、制作者はイーサン(クラーク・ムーア)というカミングアウト済みのゲイを登場させている。イーサンは、原作小説には登場しない人物だ。そして本作におけるイーサンの役割は、人口統計学的に言ってサイモンと対照的な人間(黒人で、男らしさに欠けている)、さらに、高校でカミングアウトするなら今でも鋼のような強い心が必要だということを思い出させる役割となっている。

それとは対照的に、『アレックス・ストレンジラブ』では、主人公アレックス・トゥルーラヴが自らのセクシュアリティを隠すかどうかという問題は存在しない。アレックスには当初、自分がゲイだという自覚がまったくないからだ。

おまけに、サイモンが絵に描いたような万人受けするハンサムのナイスガイであったのに対し、アレックスはもっと個性的なキャラクターだ。ひょろっとした体型で、動物学に夢中のオタクであり、生徒会の会長に選ばれるような人物なのだ。転校生クレア(マデリーン・ワインスタイン)が頭足動物マニアだとわかった瞬間、彼の頭の周りにはキュートなアニメのハートマークがぽんぽんと現れる。アレックスとクレアはすぐに打ち解けてつきあい始めるが、セックスは一度もしない。

アレックスの映画では、ティーン映画によくある別の常套手段が使われている。2人はセックスする約束をし、ホテルに部屋をとって「本物」のカップルになろうとする。しかしアレックスは、ゲイを公言するエリオット(アントニオ・マルツィアーレ)に出会ってすぐさま強い連帯感を抱いたことから、どうして自分がクレアと寝るのをいつも避けたがっていたのか、その理由に気がつく。ただし、クレアにもまだ惹かれていて、もしかしたら自分はバイセクシュアルなのではないかと思い始めるのだ。

そう気づいた瞬間のシーンは、キュートに演出されている。朝食時、アレックスの前にあるシリアルの箱のブランド名が、「HETER O’S(異性愛:ヘテロ)」、「GAY FLAKES(同性愛:ゲイ)」、「Bi-CRUNCHIES(両性愛:バイ)」に見えるというしかけだ。一瞬だが、『アレックス・ストレンジラブ』は、(10代のセックスコメディという設定のなかで)バイセクシュアルの男子がセクシュアリティに目覚める姿を描く新境地を開いたのではないかと思えるシーンだ。

しかし残念なことに、そうではない。アレックスの間違いというわけではないのだが、多くのゲイ男性と同様、アレックスもまた、自らをゲイだと認める前に、一見すると安全そうな第一歩として、バイセクシュアルを疑ったのだ。

アレックスがバイセクシュアルであれば、ティーン映画ではこれまであまり見られなかった何かをオーディエンスに提供できただろう。つまり、「バイセクシュアルが三角関係」に陥り、アレックスが、クレアとエリオットに対して抱く矛盾した感情が何なのかを解き明かそうとする物語だ。ところが実際には、アレックスがゲイだと最終的に自覚を持つまでにぶつかる障害はごくわずかしかない。

映画は90分あまりと短いが、やけに冗長でバランスが悪く、アレックスのストレートの親友デル(ダニエル・ゾルガードリ)が繰り広げるドタバタ劇に無駄な時間が割かれている。それなのに、父親から家を追い出されて友人家族の家に居候するエリオットの心の動きはほとんど描かれない。

『アレックス・ストレンジラブ』がエリオットの物語だったら、どんな映画になっただろうかと思わずにはいられない。つまり、ゲイを公言する男の子が、本当の自分を見出そうとする若者と恋に落ちるストーリーだ。そういう面から見ると、『Love, サイモン 17歳の告白』には、イーサンの過去を描く場面がもっとあっても良かった。いっそのこと、彼にボーイフレンドがいる設定もあり得たのではないだろうか。それなのに、カミングアウトしようとするゲイの若者のあり方に焦点を当てすぎており、ゲイの若者であるとはどういうことかが見落とされている。

自己受容に苦しむLGBTを描いた2018年の映画には、高校以外を舞台にしたものもある。『ボヘミアン・ラプソディ』は、クィアを主人公にした映画だが、アメリカ映画史最高の初週興行成績を記録した。しかしだからといって、フレディ・マーキュリーのセクシュアリティは(映画では)自己を否定し逃避したいという恐怖や堕落の結果であるという、奇妙にも逆行的な描き方をした映画であることに変わりはない。

2018年4月に公開された『ディスオビディエンス』(日本未公開)は、ロンドンの正統派ユダヤ教徒コミュニティに生まれた女性2人(レイチェル・マクアダムスとレイチェル・ワイズ)が、若いころに強く惹かれ合いながらも別れ、女性に対する強い思いを封印して生きてきたのちに再会する様子を描いている。

2018年は、成人を主人公にした、クローゼットという枠から大きく飛び出した冒険的なLGBT映画がほかにもあった。『コレット』(2019年5月に日本公開予定)は、タイトルにもなっている20世紀フランスの有名女性作家シドニー=ガブリエル・コレット(演じるのはキーラ・ナイトレイ)が、好奇心と称賛の思いから、女性への関心を自由に模索していく姿を大胆に描き出すところから始まる。そして彼女は、粗野で支配欲の強い夫ウィリー(演じるのはドミニク・ウェスト)と衝突し続ける。

また、『ある女流作家の罪と罰』(日本では2019年夏にデジタル配信予定)は、人間嫌いのレズビアンで落ちぶれた作家、リー・イスラエル(メリッサ・マッカーシー)が、著名作家が書いた個人的な手紙の偽造に手を出し、放浪者ジャック・ホック(リチャード・E・グラント)と共謀して詐欺を働いていく実話だ。

2018年末にアメリカで公開された『女王陛下のお気に入り』(日本公開は2019年2月)は、英国のアン女王(オリヴィア・コールマン)、その幼な馴染レディ・サラ(レイチェル・ワイズ)、サラの従妹アビゲイルの女性3人が主人公だ。ともに、痛快なまでに心理的・性的な悪意に満ちた三角関係にとりつかれており、自身のセクシュアリティの受容に関しては一切エネルギーを使っていない。

アメリカで6月に公開された、音楽が大きな役割を果たすインディ映画『ハーツ・ビート・ラウド たびだちのうた』(2019年6月日本公開予定)は、10代のクィアがセクシュアリティとどう折り合いをつけるかという点には固執せず、それを率直に表現する姿を描いている。

ストーリーは、売れないミュージシャンで、経営していたレコード店をたたむ決意をした男やもめのフランク(ニック・オファーマン)が、カリフォルニアにある大学への進学を控えた娘サム(カーシー・クレモンズ)と向き合う姿を追っている。

父娘が一緒にレコーディングした曲を、フランクがスポティファイにアップロードしたところ、なかなか好評だったことから、2人は夏のあいだに曲を書くことにする。サムは、地元に住む芸術家ローズ(サッシャ・レイン)とつきあっているが、はじめのうちは、フランクが娘のセクシュアリティについてどのくらい理解しているのかはわからない。

しかし、サムが書いた新曲を初めて耳にしたフランクは、それがラブソングであることにすぐに気がつく。そして、父親らしいまなざしを娘にじっと向けてから、苦笑しつつこう言う。「お前にはガールフレンドがいるのかい?」。サムが黙っていると、フランクは、少し間を置いてからまた口を開く。「それともボーイフレンドか?」。サムは父親を訳知り顔でじっと見つめ、ローズのことを打ち明けるのだ。

サムが、女性に惹かれていることを自覚してそれを受け入れるまでの過程と、フランクがサムのセクシュアリティを受け入れるまでの過程がどのようなものであったにせよ、映画のなかではすべて過去の話だ。ローズはサムにとって、しっかりと安定した関係にはなっていない。2人の交際が真剣さを増していくことは、家を出てカリフォルニアに行くことについての複雑な心境をますます強めるだけだ。

映画のクライマックスでは、レコード店の閉店日に、フランクとサムが一緒に演奏する。そこでフランクはサムに対して強制するかのように、ローズに捧げた曲を演奏させる。そのシーンは感動的で、ほろ苦く、本当にロマンティックだ。オーディエンスがまさに映画で見たいと望むシーンになっている。

『Love, サイモン 17歳の告白』のクライマックスで、サイモンはこう宣言する。「僕には、とても素敵なラブストーリーがふさわしい」と。とはいえ、この作品がいかに人を魅了するものであろうとも、そのラブストーリーは、ちょうど始まるところで終わりを迎えてしまう。だが、『ハーツ・ビート・ラウド たびだちのうた』が証明しているように、ティーンエイジャーにとっては、クローゼットを出たあとのストーリーも、そこを出るために経てきた過程と同じく、複雑でドラマチックだ。映画制作者には、クローゼットを出たあとのストーリーを語るための勇気と支えが必要なのだ。

この記事は英語から翻訳・編集しました。翻訳:米井香織、遠藤康子/ガリレオ、編集:BuzzFeed Japan